進路南へ

大越体育館での数日中もいろいろなことがありました。ただ、当時のことはあまり覚えていませんし、前後関係もあいまいです。体育館にいる時、テレビが設置されていてニュースを見ることはできました。情報が不足している中、自分にとっては唯一の確かな情報源だったので、起きている時は大抵ニュースを見ていました。
依然、詳しいことはわかりませんでした。みんな情報を求めていました。
それでも原発で水素爆発が起きたことが報道されていて、大変な事態に陥っているのは明白でした。再臨界の危険もありました。総理大臣がヘリコプターで視察に来たことや、原発で作業をしていた東電社員さえも手におえず撤退するかもしれないなどと報道されていました。
いったい自分達はどうなってしまうのでしょうか?
また、他の土地でも大変な状態であることがわかってきました。宮城県では大規模なコンビナート火災が発生していること、予想以上の津波の被害などを知りとても驚きました。

こうした中で体育館でも別な場所に移ろうとする家族が増えてきました。それは、やはりここもじきに危なくなるかもしれないという危惧からでした。
三日も過ぎると当初は一杯だった体育館も半数程度までに減ったような気がします。残された人達は、みんなどこに行ったのだろう寂しくなったね、なんて話していました。
それに体育館の灯油も少なくなっていきました。大きなファンヒーターも一台また一台と灯油の節約のために消されていきました。体育館の人もなんとか手に入れようとしたとは思いますが石油は本当に不足していました。そもそもタンクローリーが来ないので供給は完全にストップしていました。
まだ雪が残る冬の最中、みんなで前の方に集まって寒さをしのいでいました。スキマにはテープで目張りをし、新聞紙を詰めて少しでも風が入らないようにしました。中ほどにはつい立をして、なるべく暖かい空気が逃げないようにしました。
自分がいる間、ファンヒーターはまだ数台は点いていましたが、その後もしかしたらすべて消えてしまったかもしれません。お年寄りもたくさんいましたので本当に心配でした。あの人達はその後どうしたろう? バスでまたどこかへ避難したのだろうか?

体育館に来て五日ほど経ったでしょうか? 自分達もとりあえず別なところに移ろうということになりました。
選択肢は二つありました。新潟かどこか南の方です。
すでに何人かは新潟に向かったという情報がありました。自分は、新潟は雪も多いし東京からも遠いので地震からの回復も遅れるだろうと判断しました。あてもありませんでしたが、とりあえず南に向かうことにしました。
ガソリンもあまりありませんでしたが仕方ありません。一か八かの賭けにでることにしました。もしかしたら南に向かえばガソリンスタンドもやっているかもしれません。
バスで避難してきた人も少なからずいました。それに比べれば幸い自分達は車もありましたし、地震発生の次の日に、いわきでほぼ満タンにしてありました。それでも半分ほどになっていたかもしれません。
「出かけるよ」と母に言いました。
こうして体育館を後にし、福島県を離れて進路南へと向かうことになりました。残された人達のことも心配ではありましたが、自分達のことで精いっぱいでした。

つづく

 

 

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