一時帰宅のこと。そして将来へむかって

あれはいつのことだろうか。

おそらく1年半ほど前の事だろうか。

ずいぶん昔のことのようにも思えます。

初めての一時帰宅をしたのは・・・

もう日々の忙しさゆえに震災後の記憶はどんどん早い勢いで遠ざかっていきます。

思い出せるうちにできるだけの事を記録しておこうにもどうも思い出せなくなっています。

富岡町に住んでいたという事実さえも本当に昔の事のようにさえ感じます。

最近以前にもまして悲しいものを見ることができなくなってしまいました。

もう耐えられなくなってしまいます。

津波が押し寄せる映像、お年寄りが涙ながらに震災を語る場面、警戒区域から救出されるも亡くなってしまった生き物たちの写真。

世の中には目をそむけてはいけない事はたくさんあります。

でも今の自分には耐えられない事実です。

思い出せないのではなく、もしかしたら自分は思い出したくないのかもしれません。

昔飼っていたねこの しま次郎 のことも思い出したくはありません。

耐えられません。

とにかく1年半ほど前の事だったと思います。

初めて富岡町の家に帰りました。

自宅につくとバスから降りてすぐ「ぴーぴー!」「ぴーぴー!」と呼びました。

飼っていた ねこはしま次郎という名前でしたが呼ぶときは「ぴーぴー」と呼んでいました。

それはいつもニャーニャーとよく鳴くねこだったので ぴーぴー うるさいねこだなあと思ったからでした。

でも、もはや影も形もありませんでした。

それが幸いなのかはわかりませんが、ぼろ家なので屋根裏部屋の穴から外に出ていたようで部屋の中で餓死するという事は避けられました。

家の周りは草ぼーぼー。

人が住んでいたとは思えないありさまでした。

幸い瓦などが落ちたり、屋根が傷んで雨漏りをおこしていたりという事はありませんでした。

あんな古い家でも倒壊しなかったのにはびっくりでした。

家の前に置いていたトレノはもう乗れるかわからない状態で鳥の糞だらけでした。

庭には牛の糞が落ちていて。

トットコさんの小屋は破壊されていました。

死骸すらありませんでした。

きっとキツネか野良犬に食べられてしまったのでしょう。

家の中に入ってみるとかび臭いにおいが充満していました。

冷蔵庫の中のものは腐りきっていました。

家具は散乱し、強い余震が何度もあったであろうことを物語っていました。

最近の一時帰宅はかつての住民で許可証があれば割と短い手続きで警戒区域に入れます。

しかし、当初は手続きだけで2時間以上かかったような気がします。

しばらく待たされた挙句、そののち長い説明会があり、行政区ごとにバスに乗っていきました。

暑い夏でも分厚い防護服を着ました。マスクも付けて。

帰ってくると下着は汗びっしょりでした。

最近うわさで聞いた話では大熊町のダチョウは殺処分されたそうです。

殺すこともなかったのではと思いますが。なんでなのでしょう。

つい最近自宅に戻ったときは黒いイノブタが自宅の前の庭でエサを探していました。

家の中の物は多くがねずみの被害にあっていました。

家宝のひいおばあさんの時代から使っている民芸タンスすらねずみにかじられていました。

ジジの目もかじられ無残な姿になっていました。

ある議員は警戒区域の町を「死の街」と呼んで解任されました。

でも自分はいつも帰るたびにここは「死の街」だと感じています。

いずれは帰るのでしょうが、今は「死の街」です。

人は住めない、残された ねこや犬は死んでいく。家々は荒れ放題。

これが「死の街」でなくてなんですか。

最近昔の事を思い出そうにもあまり鮮明には思い出せません・・・

宮城県での仕事も決まりました。

職場内での辛いことも多々あります。

もう辞めようかと思ったこともありますが中にはいい人もいます。

だからもう少しがんばろうと思います。

いつ帰れるかはわかりませんが、自分はとりあえずここで、がんばれるだけがんばろうと思います。

ねずみにより目がとられたジジ

草原と化した田んぼ。自宅前にて

ジャングルと化した自宅裏

風呂場

台所

長い放置の末、エンジンのかからなくなった兄の車

このようなところに再び人は住めるのでしょうか・・・

 

 

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