数か月前から、今日、水道屋さんが来てくれて上水の開通をしてくれることになっていました。
11時には自宅の方に来るとのことでしたので、借上げ住宅は8時には出発です。
あいにくの雨。
とても憂鬱です。
来月の6日には常磐道を通って富岡町まで行けるようになるのだな、などと考えながら自宅に向かいました。
来月からは少しだけ楽になります。
平日なので6号線はとても混んでいました。
福島県の浜通りは暖かいから、紅葉はちょうどいいか少しだけ盛りを過ぎたころです。
道路わきの街路樹は、赤や黄色にきれいに色づいていました。
予定通り、自宅には11時少し過ぎには着きました。
水道屋さんはすでに作業していました。
ボクは、「こんにちは」と声だけかけて、あとの対応は母にまかせました。
意外と若そうでしたが、穏やかな方でした。
母に水道メーターのところの元栓の開け方を教えたり、中の水道のパッキンなどがダメになっていることなど説明していきました。
そして、約4年ぶりに水が出ました。
トイレも使えるのかな?と思い、少しだけ流してみました。
結果は・・・。
一面水浸しに。
何か詰まってしまっているのでしょうか?
ダメでした。
そして、水道屋さんはガスも少し見て行ってくれました。
ボイラーもダメだそうです。
4年という月日は大きい。もう何から何までダメになっています。
住めるようにするためのハードルは高いです。
いっそ、別な場所に建て替えた方が安いのかもしれません。
でも、母は家に帰りたいと言い続けています。
もう歳だから一人にしておく訳にもいきません。やはりボクも一緒に帰らないといけないのです。
雨の中、わざわざ遠くから出向かざるをえませんでした。
今日はなんだか朝からイライラしてしまい、水道屋さんにもろくにお礼も言えませんでした。
それから少しだけ片づけをしてから借上げ住宅に帰ることにしました。
途中、またいつものように海沿いの様子を見ながら帰ることにしました。
富岡駅に近づくとなにやら浜の方で鉄骨の建物を建てているようでした。
いったい何だろう?
ついでに富岡町内も見てまわりました。
半年くらい前に来たときと比べると、被害を受けた建物は、さらに崩壊が進んでいるようです。
ボクの好きな「うなぎ」のかば焼きを売っていた「押田」もだいぶ傾き、倒壊寸前です。
明治元年より営業していて、つぎたして使っていた秘伝のタレもダメになったと聞きます。
いわきで再開していると聞きますが、味は落ちたと聞きます。
ボクは、ばあさんが生きている頃に一度行ったきりだなぁ。もっと食べたかったな。
ばあさんが死んで、もう10年。
物心ついた時から祖母はとても身近な存在でした。いつも一緒にいると当たり前の存在になってしまいます。
ずっと三人で一緒に暮らしていけるのではないかとさえ錯覚していました。
祖母は、持病があり、痴ほう症になっていたとしても割と元気でした。
でも、何の前触れもなしに、突然別れはやってきました。
肺炎になってから亡くなるまでは数週間だったと思います。
人の命は重いものですが、その命はとてもはかない。
あの時が、唯一経験した身近な家族の死でした。
母も歳をとりました。あとどのくらい一緒にいられるのだろうか?
当たり前の存在だと感じていたとしても、いつか必ず別れは来ます。
ボク自身も、40歳になろうとしています。
いつ何かの病気になって、あっけなく死んでしまうかもしれません。
自分を取り巻く環境も、富岡町も、家族も、ずいぶんと世の中は変わってしまった。
勿論、辛かったこともあったけど、あの頃は、いろいろな意味で楽しかった。三人でそれなりに楽しく過ごしていました。
今 思えばかけがえのない日々でした。
大事な家族だったのに、ばあさんには、あまり良くしてあげられなかったなぁ。
後悔しています。
人間の一生って、ホントはかないものです。
つい、自分の人生なんて、何の価値もないと思ってしまいます。
ボクは、何のために生きているのだろうか?何の意味もないように感じることもあります。
数年前、医者にガンかもしれないと言われた時でさえ、何も感じませんでした。
自分は、死ぬのは怖くありません。
ただ、生を受けたから、精一杯、最期の時までがんばるだけです。
目の前の日課に追われ、後で後悔しないようにと言い聞かせながら過ごす毎日です。
帰りには雨は土砂降りになっていました。