愛猫とのかけがいのない思い出を風化させないために

愛猫とのかけがいのない思い出を風化させないために・・。

そして、まだ、元気に生きていることを願って・・。

 

あれはまだ、東京に住んでいる時のことでした。四年ほど前になるでしょうか。足立区の小さな会社の機械設計の仕事をしているころのことです。ある日、動物病院も経営している上司の家の前に小さなねこが捨てられていたそうです。自分は自宅で一人暮らしでしたし、福島県の母のところにはたくさんねこがいましたので、自分もかわいそうな捨てねこでも飼ってみようかと思っていた矢先でした。以前から、シャムねこの雑種などがいいかな、と思っていました。

今朝、動物病院の前に子ねこが捨てられていたと聞いて、初めは好奇心で見てみることにしました。実際に見に行ってみると本当に小さい手のひらサイズのねこでした。動物病院のスタッフの方が、ボクの方へその子ねこを差し出しました。それで、受け取って抱いてみました。すると、ごろごろととても懐いていました。あまりのかわいさに、ついその場で、あと先考えずに飼うことを即決してしまいました。それが、しま次郎との初めての出会いでした。
その日は、上司のところでワクチンの注射を打ってもらい、多少のエサももらって帰宅することにしました。

当時は電車で通勤していたので、しま次郎は小さなダンボール箱に入れられて一緒に帰ることになりました。電車の中でも全然騒ぐこともなく静かにしていたのがとても印象的でした。途中で死んでしまったのかな、と思うほどでした。東京は交通量も多いですし、自宅も幸い広かったのでお座敷ねことして飼うことにしました。

なかなか猫砂で用を足してくれないのには参ってしまいました。それになぜかノミが大量に発生するようになってしまいました。畳の上で飛び跳ねているのが目に見えるほどでした。きっと古い家だったからなのでしょうか? それでも独り暮らしのボクにとってはやはりかわいくて心が和みました。

ボクが仕事に行っている間は一匹でつまらないだろうと思い、欄間から紐をたらし、その先にいらない靴下をぐるぐる巻きにした「サンドバック」を作ってあげました。それでいつもねこパンチの練習をしていました。これは将来ボクサーになるな、と楽しみにしていました。

自宅に帰ると必ずお出迎えをしてくれました。自分が机で勉強していると椅子の背もたれの上でずっとおとなしくしていました。ねこ枕ですね。たまにこくりこくりとして背もたれから落ちそうになっていました。

一度、大変な失敗をしてしまったことがありました。週末はたびたび福島県の母のところに帰っていましたので、しま次郎はお留守番でした。そういう時は給餌機を二つセットして出かけました。
もう夏が近づき、日中は締め切っていると部屋はとても暑くなってきていました。
その週末も給餌機にモンプチをセットして出かけました。
帰ってきて異変に気づきました。暑さでモンプチが傷んでしまって、ウジがわいていました。しま次郎は下痢になってしまいました。かわいそうなことをしました。

しばらく、そんなしま次郎との穏やかな日々が続いていました。

 

しかし、しだいに自分自身のまわりでいろいろなことが起きはじめました。

五年ほど勤めた会社が閉鎖することになりました。所長の体調不良が主な原因のようでした。それに、世の中はリーマンショックで不景気でもありました。会社に行っても仕事らしい仕事をしない日々が数ヶ月続いていたような気がします。そして、平成二十二年一月に閉鎖になりました。所長とはとても仲が良かったのですごく残念でした。

その後、職業訓練学校に行くことになりました。三次元のCADを勉強することができました。それは幸いでしたが、失業者の手当てでしたので収入はさらに少なくなりました。

その年の十二月には新しい仕事が見つかりました。しかし、他の従業員との折り合いが悪く試用期間中に早々と退社することにしました。辞める時、うれしいことにその会社の社長はもう少し続けるようにと励ましてくれました。でも、やはり辞めてしまいました。技術職ですので仕事を教えてくれる人と仲が悪いととても勤まりません。

それからしばらくは、アルバイトをしていました。
それらの期間、とても貧しい生活を強いられ、自分は米しか食べられないようなこともありました。数食抜きのこともありました。でも自分は食べなくても、しま次郎には必ず缶詰のエサをあげました。ねこに罪はないですから。

それからも大変なことが続きました。施設に入っていたアルコール中毒患者の父親が、手に負えないということで施設を追い出されることになりました。父親との関係は最悪でしたので、父親が帰ってくるとなればボクは自宅を出ないといけません。

こうした経緯で再び、福島県、富岡町の母のところに帰ってくることになりました。もちろんしま次郎も連れてきました。やはり電車の中でもおとなしくしていて、それを母親に話すととても感心していました。
それからしばらくして機械設計の仕事も見つかり生活も軌道に乗りはじめ、穏やかな日々が続きました。たまにケンカをすることもありましたが、しま次郎も他のねことうまく生活していました。ボク自身もだいぶ富岡町の生活に慣れたその時、平成二十三年三月十一日を迎えることになりました。

そして次の日の朝が、図らずもしま次郎との別れの時となってしまいました。探しましたが、現在も行方不明です・・。

拾った当時のしま次郎

震災少し前のころのしま次郎

 

 

好きな詩

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

だれもが知っている詩です。

自分も小さい時から冒頭部分くらいは知っていました。

しかし、大人になってもう一度読んでみると、その優しさと意志の強さに感動しました。

そして何が本当の幸せなのかを再確認させてくれました。

欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている

1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆる事を自分を勘定にいれず

野原の松の林の影の小さな茅葺屋根にいて

南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い

みんなにでくの坊と呼ばれ、ほめられもせず

そういう者にわたしはなりたい

穏やかな心、人への優しさに満ちた心をもつこと、たとえ貧しくてもそれが本当の幸せではないでしょうか?

 

 

人間の光と影ー影(1)

ある日、スポーツセンターの職員の方が怒鳴り声をあげていてびっくりしました。

「あなたのような人はいなくていいから出て行ってください!」

事情をお聞きしてみたところ支援物資の水を1箱も勝手に自分の車に持って行ったそうでした。

当時いろいろなところから支援物資の援助がありスポーツセンターには結構な量の食べ物や古着やその他日用品が置いてありました。食べ物は職員室の前に置いてあって、他のものは2階に置いてありました。
必要なものを職員に話して職員から受け取るというのがルールでした。

ある時はやはり小さな子供のいる若いお母さんがこそこそとカップラーメンを1箱ごっそり持って行きました。

たまたま自分はそれを見ていてびっくりしました。

今の若い人は譲り合いの気持ちがないのかなと思ってしまいました。

確かにみんな少しでも多くの食べ物を確保しておきたかったのだと思います。
家族がいれば家族のことを守りたいという気持ちも理解できます。
でも他の人の事も考えなかったのでしょうか?
不安で苦しいのはあそこにいた人みんな同じだったはずです。ほとんどの人がマナーよく過ごしていたのになぜ一部の人はそのような行動に走ってしまったのでしょうか?
それにスポーツセンターではちゃんと3度のご飯を提供してくれていてどこよりも待遇はよかったはずです。そんなに貪欲に食べ物を集める必要もなかったはずです。

スポーツセンターでは掃除当番が決められていました。
合宿する学生も掃除はしていたそうです。
そこでやはりみんな嫌がるのはトイレ掃除です。
率先して掃除する人はいません。

結果自分たちが2階の南側の当番になりました。もう1家族と交代のはずでした。

しかし・・・

もう片方の家族はほとんど掃除しませんでした。掃除してもただほうきではくだけでした。

人の事を責めるつもりはありません。
きっと自分も知らないうちに他の人に嫌な思いをさせた事もあったかもしれません。
でも、以前から自分は大変な時こそ本当の自分が出るのだからそういう時こそしっかりしないといけないと自分に言い聞かせてきました。それが自分の信条でした。

地震発生後もずっとそう決意してきました。だからこれだけは言えます。

自分たちの当番の時は、きちんと床も便器も雑巾がけをし柄のついたブラシで中もきれいにしました。

本当は自分だってトイレ掃除なんてしたくありませんでしたが、施設にただで置いてもらっているのだから、ご飯だって食べさせてもらっているのだからと精一杯掃除をしたつもりです。

普段は見えない事でもふとした時にその人の本当の姿がわかるものだと思います。
完全な人はいません。つい我先にと思ってしまいます。それはみんな同じだと思います。
きっとそれを克服するのは他の人への思いやりの気持ちや感謝の気持ち、それに自制心だと思います。
自分だって家族には嫌な思いをさせた事もたくさんあると思います。家族だとつい遠慮なしに文句を言ってしまいます。

でも、いつでも人の心の痛みを理解できる穏やかな気持ちを持った人に自分はなりたいです。

つづく

 

 

被災者としてのつぶやき

人の考えは千差万別です。
ある人がいいと思うことでも、ある人にとっては不愉快だということもしばしばあります。

これからのつぶやきはボク個人としてのつぶやきです。
反対意見、違う感じ方の人も多いかと思いますがあえて書きます。

長い歴史の中で自然災害は人が避けられないものとして立ちふさがってきました。
それでも人は治水工事をおこない、地震も予知しようと災害と必死に戦ってきました。
昔よりは洪水も減り災害で人が死ぬことも少なくなったに違いありません。

たとえば、自分が若いころ住んでいた墨田区はゼロメートル地帯と呼ばれ海面下の土地がほとんどです。
それでも堤防を築き人工的な河を作り河が氾濫したり洪水になったりすることはなくなりました。
少なくともボクが生きている間に洪水に見舞われたたことは1度もありません。

それでも今回の地震では多くの方が亡くなりました。

家族をなくした方はきっと、災害だったから仕方がなかったんだとは割り切れないはずです。

何で自分の家族やペットは死ななければいけなかったのか?怒りや悲しみの気持ちをどこにぶつければいいのかと感じているに違いありません。
きっとそれは当事者のみが知る計り知れない感情だと思います。

では、原子力災害で非難を余儀なくされている人はどうでしょうか?

今回よく聞いた言葉は原発災害は人災だということです。

自分は昔から東電は好きではありませんでした。

小さな町にあんなに大きな会社が来て残した負の財産も計り知れません。

死んだばあさんがよく言っていました。
昔は東電があった山ではきのこや山菜がたくさん採れたのだと。
でも東電ができてそこでは山菜採りはできなくなりました。

きっと、ある人は山なんかいくらでもあるのだからそっちで採ればいいんじゃないと言うかもしれません。

でも本当にそうなのでしょうか?

小さい町なので国道6号線も1車線しかありませんでした。
なのに毎日東電へと大勢の人が仕事に向かいます。
朝は東電の前を通過するのに20分はかかりました。
もし楢葉町から原町に通う人がいると第1と第2の前で渋滞に巻き込まれて計40分は失います。
人の1日の生活から40分が問答無用に奪われます。果たして納得できますか?

小さな田舎道も抜け道に使われれば毎朝毎朝 東電で働く若者がスポーツカーや高級車をかなりのスピード走らせ危険地帯へと変化させます。

ペットも跳ねられ人だって危険を感じます。実際ボクの家の前がそのような状態でした。

実際に東電で働いている人はそんなことは考えなかったに違いありません。むしろある人は東電が多くの人に働く場を提供してきたんだからそれは仕方のないことだというかもしれません。

でもうちの家族は誰も東電で働いておらず何も恩恵は受けていなかったので客観的に考えられたのかもしれません。

それでもある人にとっては東電で働けなかった者の ひがみ と受け取られたかもしれません。

事故前は多くの人が原発は安全だと言い張っていました。

チェルノブイリの事故もあったものの日本の技術は世界一だから安心だ、飛行機が落ちる確率の方が大きいのだと。

でも結果はこのようなものです。はっきり言って、あきれかえります。

昔から自分たちのように何も恩恵を受けてこなかった者からすれば今回のことはただはらわた煮えくり返る出来事です。

最近よく思い出します。

春から初夏には田んぼでカエルが鳴いて大合唱でした。うるさいと感じたことはありません。むしろそんな自然環境が好きでした。
夏にはよく雷雨もありましたが、自分は雨も雷雨も嫌いではありません。家の中にいれば雷雨もまた一興です。
梅雨時期でも部屋の中から庭をながめながら読書をするとなんとも心が落ち着きました。
秋の紅葉もいいですよね。少し車を走らせた川内村には本当に紅葉がきれいな場所がありました。
天山の湯という温泉もあり週末はとても多くの人が温泉に入りに来ていました。
冬も小さなころは稲を刈った後の田んぼで凧揚げをしたりして遊んで記憶もあります。

母親も老後を穏やかにすごし、自宅の隣の小さな畑で自分たちが食べるくらいの野菜をつくっていました。
またそれが楽しみでもあったようです。

近所の人からナゴヤコウチンをもらいました。
ナゴヤコウチンは鳥としてはとても懐くのですよ。母の後ろをついて歩いていました。トットコさんと名前をつけていました。

こうした穏やかな日々が原発事故で奪われてしまったわけです。

1度目の帰宅でもトットコさんの小屋は破壊された後できっと野生の生き物に食べられてしまったのだと思います。

怒りを感じないわけがないとおもいませんか?

ペットのしま次郎も以前行方不明です。
もうきっと死んでしまったでしょう。

生き物の命はお金では買えません。それはわかっています。いくらあがいてももうきっとみつかりません。

東電へは 「お金」 として損害を請求するしか道はありません。何もしなければそれも納得いきません。
でも東電はペットは損害賠償に含まれないと言い続けています。

ようやく最近、損害賠償紛争解決センターを通じて賠償金をもらいました。

たったの5万円です。

あんなにかわいがっていたのに。その命が5万円ですよ。命はお金で代えられないのはわかってはいても納得いきますか?

似ている猫がいると聞けば仕事で疲れきっていても週末を使って宮城県から埼玉県や福島県に見に行き、NPOの人にお願いして自宅に捕獲機を置いてもらって、時には自分たちも見に行ったりして。
時間もお金もたくさん費やしました。そうした事情を話してもたったの5万円です。

自分たちは東電に何をしてもらったというのでしょう?なぜこんなに苦しめられないといけないのでしょうか?

自分たち兄弟が18歳になったとき、母がそれぞれに中古車を買ってくれました。

そのためのお金は、父親は今もそうですが給料はほとんど酒に使ってしまって貯金もありませんでしたので母がパートなどして貯めたお金でした。

僕はホンダのインテグラを買ってもらいましたが、数年前に事故でオシャカにしてしまいました。
駄目にするまではとても大事にしていました。
兄はトレノを買ってもらいました。でも結婚するからと自分のところに置いていきました。
自分はそれに乗っていました。

非難する時、母の車で非難したのでトレノは置いてきました。
確かに何回かは一時帰宅の際に持ってこれたのですが機会を逃してしまいました。
いざ持ち出そうとしても最近は持ち出せなくなってしまって、東電に問い合わせても廃車にしてくださいと言うのみです。

いくら古くたって思い入れのある車をそう簡単に廃車にできると思いますか?

廃車にしたとしても中古車市場の価格しか出さないということなので、賠償金をもらったとしても本当に二束三文です。それで納得いきますか?

ふるさとで心穏やかに亡くなりたいと思うお年よりは多いと思います。でも最近は仮説住宅で息を引き取る方も増えていると聞きます。

あと4年ほどは帰れないのでしょうか?

多くの人が穏やかな毎日も、生きがいにしていた仕事も奪われてしまいました。

破壊されたトットコさんの小屋

兄のトレノ。

2013年5月。エンジンが駄目になっていて、結局廃車になりました。

 

 

人間の光と影ー光(1)

夜遅くなってはいましたが、今市青少年スポーツセンターに到着し、部屋に案内されました。

施設内は消灯時間を過ぎて暗くなっていました。

相部屋だということでしたが、もう寝ているかもしれないと言われました。

部屋に入ると体が大きくて一見少し怖そうな人が立っていました。

その方のご夫婦と相部屋になるそうです。

一気にお先真っ暗に思えました。

少し話してみると隣町の方だということがわかりました。

その方もねこを数匹飼っているということでした。

一緒に連れてきた唯一の猫、アメショーさんはどうしたかというと。

残念ながらスポーツセンターでは動物は部屋に入れてはいけないということでした。

それで車の中で飼うことになりました。

夜はまだ寒い時期でしたので車の後ろの方に毛布を敷いて、カイロをたくさんおいてあげました。カイロはたくさん消費しました。

それでも風邪になったこともありました。

1度とてもこじらせてしまったので施設の人に場所を聞いて近くの動物病院につれて行きました。

注射を打ってもらい、薬ももらってきました。

獣医の方と雑談していて自分たちが避難者であることを話したところ、治療費は一切いらないということでした。

本当に心やさしい獣医さんでした。お金はどうしても受け取ってくれません。

それでその日はお礼を言って帰ってきました。

そのかわり後日ほんの気持ちばかりですが商品券を買ってご家族の方においてきました。

母は夜こそは部屋で寝ていましたが、昼間はずっと車でアメショーさんのお世話をしていました。

車はもはやペットの小屋になってしまい、かなり臭うようになってもいました。

相部屋のかたも同じで、夫婦で交代づつ車に行ってねこのお世話をしていました。

その方は夜も日替わり交代でねこのお世話をしていました。

一見怖そうな相部屋の方でしたが、実は公務員で優しい方であることがだんだんわかってきました。

その後、数週間は一緒にすごしましたが、早々と仕事に復帰されるために施設を出て行きました。

自分たちが置いていかれたようにも感じ少しさびしくなりました。

またそれは、これから先のめどがついたということでしょうからお先真っ暗な自分たちが情けなくもなってしまいました。

さてスポーツセンターに入った次の日いろいろと説明を受けました。

なんと泊まるところを提供するだけでなく3度のご飯を提供してくださるということでした!

それが日替わりでしたし、施設で働く料理人の手作りでした。

おいしいし、量もあるし、健康のことも考えられたすばらしいご飯でした。

最近はずっとまともなものを食べていなかったのですごく感謝しました。

本来は学生たちが合宿のために使っている施設なので、同じメニューを出しているということでした。

近所の人からの差し入れもありました。お菓子、ご飯、つけものなど。

本当に感謝でした。

多いときで何人泊まっていたでしょうか?

100人くらいいたでしょうか?

結局みんな1月半くらいいたのですが、そうした避難者のための食費やら生活費はどこから出ていたと思いますか?

施設ではクーラーがありませんでしたし、少し古くなっていたので改修するためにお金を貯めていたそうです。

そのための設計もすでにすんでいたということでした。

その貯めていた改修費用をすべて避難者のために使ったということでした。

さらに、避難者がいるために他の利用者を受け入れることはできないので、収入もなく出費がたいへんだと言っていました。

確か県の施設とはいえそこまで避難者のためにする義務は本来ありません。

すべて所長さんの厚意でした。「ここでお金を使わないでいつ使うのか」と言っていました。

世の中にはこういう人もいるのだなと思いました。

最近は人を刺しただの、ドラム缶に死体を入れて海に捨てただの、満員電車で女性に触っただの嫌なニュースや馬鹿馬鹿しくなるニュースも多いです。

いじめの問題も心痛みます。

でもそのとき、まだまだ人間捨てたものではないのだなと思いました。

今回は本当に大勢の人に助けられました。

今の自分たちがいるのも多くの人の支えによります。

被災者という特に心細くなりがちな状況で人の温かさは通常にも増して自分たちを元気づけました。

親切にしてくれた当人はなんでもないと思うことでも不安な気持ちになっている人には元気の源になることも多いのです。

たった1杯のお茶でも、少しの励ましの言葉でも心に響く場合があるのです。

自分がこんどは何か人のためにしてあげられることがあったならば人の役に立ちたいと考えました。

今回お世話になった人に直接恩返しをすることはできなくとも他の困っている人のために。

つづく

 

 

今市青少年スポーツセンター

大越体育館を去るにあたって少しでも情報がほしいと思いました。

それで管理棟の方にネットを見させてもらうことができました。

やはり栃木県に行くといくらか避難所も開設されているということがわかりました。

それで、1杯のお茶もごちそうになって、また励ましの言葉もいただいて南へと向かうことにしました。

とにかく国道4号線をひたすら南へと向かいました。

途中、ガソリンスタンドはまったく開いていません。食べ物の入手もできませんでした。

何も食べずにひたすら南へと向かいました。

ガソリンが底をつくのではないかという不安もかなりありました。

幸い軽の貨物ですので燃費はいいです。リッター20キロは走ります。

それは本当に助かりました。

道中のことはもう何も覚えていません。ただただ必死でした。

那須町に入ると避難所と書かれた看板や矢印を見つけることができました。

そのとおりに進むと避難所の斡旋を行っているところに到着しました。

簡単なスクーリングもしてもらいました。

スクーリングをしないと栃木県の避難所は受け入れてくれないということだったような気がします。

でももうどこも一杯でした。

自分たちは出遅れてしまったのでしょうか?

ただ一箇所だけ今市青少年スポーツセンターがまだ受け入れてくれるということがわかりました。

でもそこも早いもの順でいつ閉められるかもわからないということでした。

それに正直、また体育館かという考えも頭をよぎりました。もう少しだけプライバシーを確保できるところがいいなーと思いました。

この際、贅沢は言っていられません。受けいれてくれるところがあるだけいいのです。

でも今市ってまだまだ南だったような気がしました。早く行かないと!

こうして南への旅は続きました。

那須街道を少し走ると、おそば屋さんがやっていました。

そこでその日初めてのご飯を食べました。

確かこのとき時間は16時くらいだったと思います。

さらに南へ向かうとなんとガソリンスタンドが開いていました!

ただすごい行列でした。店員に聞くとついさっきタンクローリーが到着したということでした。それでたくさんあるから待てば必ず入手できるということでした。しかも制限なしです!

急ぐ旅ではありましたが途中で立ち往生することはできません。並ぶことにしました。

幸い1時間程度で給油できたと思います。自分たちの後ろも次から次へと車がやってきていました。

これで少しは安心しました。

念のため青少年スポーツに電話しましたがまだ大丈夫だということでした。

道はすっかり暗くなっていました。慣れない道でしたしナビもついていません。

同じところをぐるぐる回ったり道に迷いました。

青少年スポーツセンターに着いたのはもう23時になっていました。定員は大丈夫でしょうか?

結果は受け入れてくれるということでした。そして明日からはもう締め切るということでした。

ぎりぎりセーフでした。

これで自分たちも何とか少し落ち着けます。

それにそこは体育館ではなく合宿場でした。

つまりお風呂もありましたし、相部屋ではありましたが個室も使えることがわかりました。

そしておいしいご飯も!

そこでまた様々な人を観察し、そして手厚い支援を受けることになりまた。

そこを出るときは所長さんに挨拶するとき、感謝でつい涙が出てしまいました。

つづく・・・