大崎市へぶらりひとり旅

梅雨の東北。でも今日は降雨はなく薄曇りでしたのでぶらりと出かけました。

当初の目的地は鳴子温泉でした。
それでタオルなどをトートバッグに入れて温泉の支度をし出かけました。

午前9時くらいに家を出発しました。
高速道路で古川インターに向かいました。それからは下道です。

しかし、鳴子温泉に行く前にまず寄っておきたい場所がありました。
それは旧有備館です。

鳴子温泉に行く途中にあります。

なんでも伊達家の学問所だったようです。
茅葺屋根の日本家屋が見られるはずです。

旧有備館付近に停められるかわからないので、MR2は旧有備館から少し離れた公園の駐車場らしき場所に停めました。

駐車場で旧有備館までの距離を確認しましたが、十分歩いて行ける距離でしたので少し散歩することにしました。

川沿いを散歩できるようでしたので川沿いを通ることにしました。

初夏の少し曇った本日、そよ風がとても涼しく感じます。
別段暑くもなく快適です。

実際に歩いてみるととてもきれいな遊歩道でした。歩きやすいようによく整備されていました。

川はサラサラと流れ、新緑の葉っぱは風でカサカサ鳴っています。
川の中を眺めてみると水草のようなものが見えました。

本当に気持ちのいい散歩コースです。自然を観察しながらの散歩は気持ちをさわやかにしてくれます。

葉っぱがカサカサ鳴っている音を聴いているとなんだか無性に懐かしく思えてきました。

この感情はなんでしょうか?
昔の事と関係があるようですが、どうも思い出せません。

民家のすぐそばに水路や川が流れている様子は白石市の街の風景を連想させました。
現在は用水路として使われているようでしたが、もしかしたら昔は堀のような役目も果たしていたのかもしれません。
いつでもきれいな川の流れを楽しめて、この界隈に住んでいる人がうらやましいです。

架かっている橋もおもしろいものがありました。

少し違和感を感じてこの橋の下を観察してみるとゴムシートが取り付けてあり水量を調節しているようでした。
橋の向こう側は水量が豊富になっていて、こちら側はサラサラと流れていました。
どのような意図があるのかはわかりませんでした。

上の橋を反対方向から見てみました。

橋の上はベンチのようになっていて座れるようになっています。
ただ、現在ではなぜか座れないようにパイロンが置いてありました。

途中に来迎寺がありました。

門がとても立派で少しだけ雷門を連想してしまいました。

来迎寺まで来れば旧有備館はまもなくです。

旧有備館につきました。

受付に向かいます。
聞くところによると茅葺屋根の屋敷は震災で倒壊し、現在修復中とのことでした。
残念・・・

そのかわり現在は入園料は無料とのことでした。

さっそく中に入ってみます。

すばらしいの一言です。
兼六園は有名で人もたくさんいました。ここはその兼六園にもひけをとりません。
でも、ここには今日は平日ということもあるとは思いますが、観光客は誰もいませんでした。

地面は苔むしている場所もあり、またスギの木もとても太くて長い時間の経過を感じさせました。
旧有備館に限らずこの周辺はかつては城下町ということもあり歴史を感じさせる建物や樹木がとても多いです。

コイがとても懐っこくてエサをねだってパクパクしていました。
あいにく何もありませんでした。
折角だからコイの口の中ってどうなっているのか観察してみましたが、なんだかずっと つるつるとした空洞が続いている感じがしました。歯はありませんでした。

途中とても新緑のきれいなところがあり見とれてしまいました。
葉っぱからしてモミジだと思うのですが、光が透けてまさにエメラルドグリーンでした。


梅雨といえばアジサイですね。


旧有備館でしばらく日本庭園の美しさを楽しみました。
屋敷の修復が終わったらまたぜひ来たいです。

折角だから近くの城山公園にも行ってみることにしました。

これは実は旧有備館の前にある鉄道の駅なのです。
一見とても駅とは思えませんでした。
公民館や集会場との複合施設のような感じになっていました。

城山公園に行こうと思ったらふと、旧有備館近くに美術館を見つけました。
「中鉢美術館」
折角だから中をのぞいていく事にしました。
なんでも刀剣の展示をしているようです。

とてもおもしろい鎧がありました。
うさぎです(笑)。お面(?)のヒゲもなんとも愛嬌があります。
これ、うさぎみたいですよねぇ、なんて美術館の人と話していたら。
まさにうさぎだそうです。

うさぎは前進しかしないから忠誠の印としてうさぎをかたどったそうです。
「うさぎはおとなしいようでおとなしくないんですよ」と言っていました。
ボクはそこは同感できませんでした。うさぎはやっぱりおとなしい生き物ですよ。

それはさておき。
銘 雪下政家
製作者は伊達正宗の鎧を作った人だそうです。

このうさぎの鎧はとても由緒あるものだそうです!

ぶらっと寄った美術館でこんなすばらしいものに出会えるとは。
だからぶらり旅はやめられません。

そのほかにも鎧も刀も多数展示してありました。
一見の価値ありです。

桃山時代の鎧。
金糸が多量に使用されていてこれも大変貴重なものだそうです!

火縄銃

日本刀。
本来は人を切るためのものではありますが、工芸品としては一級品です。
日本が世界に誇るものの1つです。

たいへん貴重なものを鑑賞することができました。
もしかしたらここはあまり有名ではない美術館なのかもしれませんが、展示品はまさに一級品です。

またぜひ、ゆっくり見たいと思います。

次に城山公園に向かいました。

坂をずっと上っていけば車でも伊達正宗の像がある広場まで行くことができます。
ボクは歩きでしたので脇道から登っていくことにしました。

歩いてみてここの構造がわかったのですが、伊達正宗の像のある広場の下のほうには公園があります。
城に特有の広い空間が広がっています。そこが公園として整備されていたようです。
昔は伊達正宗の居城だったという事です。かつてはここで武芸の訓練などしていたのかもしれません。

ただ、今は草も刈られてはいなくて薄暗いです。
雰囲気も少し暗いです。
ここを女性1人を歩くのは物騒だと感じました。

コンクリート管の遊具。かつては砂場だったと思われます。
もしかしたら午後から雷雨になるという予報でしたので雨が降ったらここで雨宿りしようと思いました。
1晩だったらここで野宿もいいかもしれません。
子供の秘密基地にもなりそうです。

あまりここには人は入ってこないと思います。
どんどん奥に入っていくと見晴らしのいい場所に出ました。

大崎市が一望できました。

この後少し戻って階段を上り正宗像を見てきました。

途中でみつけた葉っぱ。

もうこの時点で3時をまわっていました。
時間的に、今日は鳴子温泉はとても行けなくなってしまいました。後日出直すことにしました。

しかし結果的に随分歩いてしまいました。
少し足が痛いです。

近くの昔から営業していると思われる酒蔵で母にお土産を買いました。
本当は母は肝臓が悪いみたいだからダメなのですが、たまにですから。


森民酒造店

生酒を買いました。
帰ってからの話ですが、こんなにおいしい酒は初めてだと喜んでいました。

帰りもぶらっと散歩しました。

ふと、なんでもない用水路を見てみますとコイが泳いでいました。

川岸を散歩した際も水の中に水草を確認しています。
確か水草はきれいな水でないと育たなかったような気がします。

ここは全体的に水がきれいです。
だからこのようななんでもない用水路でもコイが飼えるのですね。

白石市でも同じように用水路をコイが泳いでいました。

そして再び行きに通った遊歩道。

ようやく昔の事を思い出しました。

兄が心臓病で外で遊ぶことができなかったせいか、ボクも小さい頃は公園で遊ばせてもらった記憶がありません。
家で絵本を読んでもらったり、クラッシックのレコードを聴いたりでした。
たぶんそのことと関係があると思いますが、かなりの運動音痴です。

だから小学生のころの夏休みも外で遊ぶよりも、どっちかというと本を読んでいる事が多かったです。

富岡町の家の縁側にて。

ひいばあさんが使っていたというビーチベッドを置いて、そこでよく本を読んだり、昼寝したりしていました。
昔の家なので縁側は開放的で風がよく通り涼しいです。
家の周りは竹藪や雑木林になっていました。
風が吹くと葉っぱがサラサラと鳴っていました。

ボクは無意識にそれを聞きながら昼寝していました。

その記憶がよみがえりました。
とても懐かしくなってしまいました。

今はまだ帰ることのできない富岡町の自宅。
いつか再び戻って穏やかな日々を過ごしたいです。

 

 

 

 

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( name : 松橋 和幸 ( kazuyuki matsuhashi ) )

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松川浦の思い出

ボクが小学校の時だったある夏休み。

いつものように富岡町に遊びに来ていました。

祖母と母と兄とボクと4人で相馬市の松川浦に潮干狩りをしに行くことになりました。

ボクは小学生。
家族の中ではまだだれも車を持っていない頃の話です。

富岡駅から電車に乗って恐らく相馬駅で降りたのではないかと思います。
相馬駅からは割と近いので恐らく歩いて松川浦に向かいました。

足を泥だらけにして貝を採ってきました。

小さなカニもたくさんいました。
そうですね。足の先端から先端まで10cmほどだったでしょうか?
飼うのにたくさんバケツに入れて持ち帰ることにしました。

何分昔の事ですので潮干狩り中の細かい事は覚えていません。

そして、帰りの電車の中で事件は起きました。

ボク達が乗った車両の向こう端の方で女子高生がキャーキャー騒いでいます。

「なんだろうねぇ」なんてみんなで話しました。
ボクが見に行くことにしました。

見に行ってみるとカニがたくさん歩いていました。

ん?

自分の席に戻ってバケツを見てみるとほとんどが脱走していました。

ボクのカニのようでした。

でも知らんぷりして家に帰りました。

その後のカニの運命はわかりません・・・

残りのカニはなんでも「カルシウムを取る」とかで母にから揚げにされて殻ごと食されてしまったようでした。

結局カニは全滅してしました・・・

 

 

自動車整備工場

20代半ばのころでした。

車好きが高じて、山の方にある自動車整備工場で働くことになりました。
従業員数は6人程度の小さな工場でした。整備員がボクを入れて4人、社長、事務員。
2年ほど働いていたでしょうか?

整備員の中に50歳くらいの方がいてその方の下で教えてもらいながら働くことになりました。
その方は整備士の免許はないものの整備歴30年以上のベテランでした。
農業も兼業していました。3丁の田んぼを作っていると言っていました。
猟師としての免許も持っていたので猟もしていました。

山の中の整備工場、自然環境は最高でした。

夏は山の方から入道雲がもくもくとやってきて、急に雷雨になったり。
秋は秋で紅葉がすばらしかったです。
でも、冬は雪が多くて通勤が大変でした。降るときで30センチは積もりました。朝と晩は、ほぼ毎日のように路面は凍りつきました。

山の中ですので山に囲まれていて、あたりは静かでなんとも心落ち着く場所でした。

納車のときなど車を運転しているとそんな自然環境にとても癒されました。

工場ですから空調設備などありません。
夏はとても暑く、冬は寒いです。盆地ということもあり温度差は半端ありませんでした。

水道管には凍結防止用のヒーターが取り付けてありました。

上司からはとてもかわいがってもらいました。
今でもたまに顔を出します。

2つある工場のうち、古いけど大きい方の工場でその方と主にトラックなどの整備をしていました。

機械いじりは割とすきです。
上司の教え方もとても親切でわかりやすかったので1年も経つとだいぶ仕事も覚えていきました。

ボクは車検や簡単な整備などを行っていました。
ブレーキの整備もやっていました。
ただ、エンジン関係とミッション関係は自分の技術では無理でした。

自動車整備って思っていた以上に大変でした。
相手が車というだけで内容は鉄工場にも通じるものがありました。

バールでドライブシャフトを外したりと。
毎日、毎日がとても楽しかったです。

週末はたまに工場を借りて自分の車の改造などしました。

仕事には波があり、たいして忙しくない時もありました。

そういう時は上司は仕事時間中ではありましたが、自分の家に連れて行ってくれてお茶を出してくれました。
ちょっとの時間ですが猟にも連れて行ってもらいました。

お昼は自分の家で作った漬物などを分けてくれました。
自分が狩ったイノシシ汁をごちそうしてもくれました。

イノシシは臭いといいますが、あのとき食べさせてもらったイノシシは全く臭みなどありませんでした。

でも、そんな自動車整備の仕事も不満がなかったわけではなかったのです。

通勤が大変でしたし、給料もとても安かったです。

通勤は峠をこえないといけなかったので特に冬場はかなりの危険が伴いました。
片道40分はかかりました。
都会では1時間の通勤も普通ですが、自分で車を運転しての通勤は1時間は結構遠く感じます。

そのころもまだ自分は朝少しだけでしたが新聞配達のバイトもしていたので、それでようやく生活していました。
丁度、母親も父親のことがあり東京から引っ越してきていましたので生活費は結構家にいれていました。

それに大型車の運転がどうも無理でした。
構内で動かすので免許はいりませんが、どうも怖くて無理でした。
下回りの洗車の際はスロープに車を上げます、特にそれが車を落としてしまわないだろうかと恐怖でした。
誰かに手伝ってもらわないとダメでした。
他の整備工場ではかつて実際にスロープから大型車を落としたことがあったと聞きました。

やっぱり自分には向いてないのかな?と感じていました。
プロだったらすべてできないといけません。
それに歳をとると手が動かなくなっていくと聞き、生涯の仕事としては無理なのだろうかという考えもありました。

しばらくそんな疑問も抱えながらも楽しく働いていました。

上司の奥さんはしばらく前に乳がんの手術をしたそうです。
何度かお会いしましたが、見た感じは元気そうでした。

ところが、ある日亡くなったと聞きました。
びっくりもしました。50歳そこそこではなかったのではないでしょうか?

葬式にも参列しましたが、とても気の毒でした。

退職するきっかけは社長とのケンカでした。

お客さんがいらないという事で工場にランサーGSRを置いていきました。
10万キロ以上乗ってはいましたが、まだ乗れます。
それでボクの通勤にと数十万で工場から譲ってもらいました。

悪いところは直してくれるという事でしたが、故障ばかり。

ある日、クラッチが全く効かなくなりました。
ギヤチェンジができないのです。

当時のボクの技術力では直せませんでした。

それで社長に直してほしいと言ったところ、ダメだということでした。

決して安い買い物でもなかったので一般の客であれば直していたのではないでしょうか?
「約束が違うのではないですか?」少し高い声で抗議しました。

だもダメだということでした。
ランサーなどのFFベースの4WDターボは整備の一番難しい部類で、ミッションは工場でもできたら修理したくないというのが本音ではあったようでした。

「では、せめてディーラーに運んでください!」と言ったところ、「明日から来るな!」と怒鳴られました。
「わかりました、明日から来ません!」

それっきりでした。

後で知ったのですが、整備工場という手前、自分たちで整備しないでディーラーにもっていくのが嫌だったようです。
自分たちでできないから持ってきたのだろうと笑いものになるという事でした。

そのあと山道をずっと1速か2速かに固定されたままで走っていきました。
ボクもはっきりいって命がけの帰途になりました。

後日、上司にあいさつに行きました。
社長も随分反省しているということでしたが、やはり辞めてしまいました。

つい先日その上司のところに行ってきました。
仕事中に骨折してしまい、それが原因で今は仕事を退職したそうです。
歳も60歳を過ぎたからということでした。

今は孫もできて農作業などやっているそうです。

昨年の記録

片付けしていたら昨年の手帳が出てきたので念のため記録を付記しておきます。

2011年 10月30日  一時帰宅
2012年 3月10日  一時帰宅
6月24日  一時帰宅
8月31日  一時帰宅
9月2日   住民説明会(郡山、ビックバレット福島)
9月17日  一時帰宅
11月24日  VIVIO(MT)廃車
12月9日  一時帰宅

 

 

軽トラックの掃除

数日前(6月17日)、富岡町の自宅に片付けに行ってきました。
避難指示解除準備区域になり何度目かの自宅です。

少しずつですが、片づけが進んでいます。

でもなかなか手も付けられない部分もあり、ボクの部屋はどこかでねずみが死んでいるのか異臭がします。
庭には片付けで発生したゴミなど山積みになっています。

電気、水道、ガスの供給はまだありません。
実際のところ電気は使えるようになったのですが、電気屋さんに点検してもらわないと使えません。
ねずみが配線をかじって断線している可能性があるからです。

ボクも電気工事士の資格はありますがこんな時は全然役に立ちません。

でも、今回のボクの目的は実は片付けではありません。
話は長くなります。

母のVIVIOが廃車になり、ミラジーノの中古を購入しました。
全体的には、とてもいい車です。
なによりクラッシックな外観がとても気に入っています。
少しだけミニクーパーに似ています。

ただ乗り味はVIVIOの方がしっかりしていました。
スバル独特の高いボディ剛性と4輪独立サスペンションが効いていました。
ミラジーノは少し乗り心地に関しては安っぽい感じはします。
ただ3気筒エンジンということもありVIVIOに搭載されるEN07のNAと比べるとパワーがあります。

また、ミラジーノを買ってみて気が付いたのは荷物がわりと載りません。
それは貨物タイプのVIVIOと比較したらかわいそうですが、リヤシートを倒してもトランクルームがフラットになりません。
裏返せばリヤシートの厚みがありシート自体のクッションがしっかりしている事ではあります。

家の片付けなどにはかなり不便です。
荷物を運ぶことも多いですし。

それで軽トラックを20万円ほどで購入しました。

古いスバルのサンバーです。
ただ、ECVTでスーパーチャージャー付です。
かつて1年間しか製造されなかった大変珍しい車です。
ボクのはRR(リヤエンジン、リヤ駆動)ですが4WDだったら結構価値があります。

最近自宅に帰るときはこの軽トラックで帰っています。
その軽トラの掃除をしたかったのでした。

失業中の身だから時間はたっぷりあります。
ホントは借上げ住宅で掃除してもいいのですが・・・住宅地です。
体裁悪いですね・・・
平日は出かけるか家の中に引きこもっています。

この間面接に行ってきたところはダメでした。
でもあきらめません。
また近々面接があります。

シートなどはずせるものはすべてはずしました。
そして、家の前の水路から水を汲んできて車内の拭き掃除をしました。
以前は鈑金屋さん(建築の方の鈑金屋さん。外壁工事などやっているようです)が使っていたという事で、すごく汚れていましたが帰りには見違えるようでした。

そしてシート下などから合計で300円ほどを発見しました!
帰りにお菓子に変身しました(笑)

現在富岡町では午後3時以降は全域において退出しないといけないことになっています。
借上げ住宅を8時に出ても自宅に着くのはお昼ぐらいになってしまいます。
だから毎回、作業できる時間はあまりありません。

ホントはコンパウンドで塗装なども磨きたかったのですが、次回ですね。

母は家の掃除をしていました。
今回は台所の掃除をしたみたいです。
帰り際に見てみたら結構きれいになっていました。

とても疲れました。

でも汚れていたモノがきれいになるというのは、とても気持ちいいものですね。
掃除の楽しみの1つですね。

 

 

斎理屋敷へぶらりひとり旅

昨日は丸森町にある斎理屋敷にひとりでぶらっと出かけました。

借上げ住宅から1時間程度の道のりでしょうか?

宮城県は梅雨入りし小雨が降っています。
でも、ボクは雨の日がすきです。
特に梅雨時期のしとしと雨が。

気持ちがとても落ち着きます。

ボクにとってはまさにお出かけ日和です。
古い屋敷やお城などを見学するときは最適のシチュエーションです。

自宅を10時半くらいに出ました。
まずは近くの会津っぽでラーメンを食べ腹ごなしをしました。

のんびりのんびり、全くいそぐ旅ではありません。
裏道を音楽を聴きながらのんびり走ります。
ボクは最近はJUJUの曲をよく聴いています。

今回は軽トラで出かけましたがツイーターも付けました。
それで、軽トラですが割といい音を奏でてくれます。
サンバーはリヤエンジンなのでエンジンが遠いです。車内の静粛性にも定評があります。
そういった面では音楽を聴きながらのドライブに向いています。

途中、山を眺めてみると小雨の中、山には雲がかかり、田園風景がとてもさえていました。

斎理屋敷に到着しました。
平日なので人はまばらです。
今はチケットは復興応援ということで500円で買えます。

まず入り口の左にある「嫁の蔵」に入りました。
1階はかつて使われていた食器が展示してあります。
2階は当時の部屋が再現してありました。

嫁の蔵のとなりには「石風呂」があります。

湯船も石造りです。
なんでも、夕方入るためには朝から準備しないといけなかったそうです。

次に向かったのはメインの建物の「居宅」です。

玄関を入ると「いろり」があります。
昔ながらの自在鍵が天井から下がっています。

今は初夏。
季節柄か いろりに火はくべられていませんでしたが、以前来たときは寒い時期だったのか薪がくべられていたのが印象的でした。

靴を脱いで座敷に上がってみます。
今は切り絵の展示会が催されていたようでした。

とてもきれいな作品が多かったです。

少し急な階段を2階に上がってみるとあることに気づきました。
それは吹き抜けです。

吹き抜けの板は開け閉めできる可動式のようでした。
きっと暑い夏は開放的に開けておいて、寒い冬は暖が逃げないように閉めておいたのだと思います。

2階は当時の文物などの資料が展示してありました。
当時は何の部屋だったろう?

昔の人の食事は質素だったようです。
麦や大根の入ったごはんに、味噌汁、漬物など

ただ斎理屋敷の奉公人は当時は貴重品だった白米をいくらでもおかわりできて、魚の煮つけなども食べられたようでした。
当時としてはご馳走だったのではないでしょうか?

斎理屋敷のダンボ(主)は奉公人をとても大事にしていたようでした。
良く食べる奉公人は良く働くという考えもあったようではありますが。

(右は当時の一般家庭の食事の例、左は斎理屋敷での一般的な食事の例)

それに、当時は貧しく座布団に座るということもなかったようです。
でも奉公人は柿剥きの際、各自に座布団があてがわれたそうです。
ダンボの奉公人への気配りを感じました。

ベランダ(当時はなんて言っていたのだろう?)に出てみました。

斎理屋敷では時代と共に営業品目は変わったものの、養蚕や、みそ や しょうゆの製造販売で財を成していったようです。
多い時は20人ほどの奉公人がいたそうです。
農地解放の時まで多くの奉公人をかかえ、農地解放のあとはダンボとその奥さんは質素に生活していったそうです。

次に向かったのは「業の蔵」です。

1階にはいろいろな農機具や奉公人を含む屋敷中の人の食事を作るための調理用品など展示してありました。
大勢のご飯をつくらないといけなかったから大変だったと思います。

2階は帳簿や古銭など展示してありました。

隣の「住の蔵」はどんなものを展示してあるのでしょうか?
向かいます。

ここは昔、男子の奉公人の住まいにも使われていたようでした。

2階に上がると壁にはそうした奉公人が書いたと思われる落書きが多数見受けられました。

南側にはふみ机。
両壁は2段ベッドのようになっていました。

展示物の中で1つ心に残ったものがありました。

貧しい者に対するダンボの優しさが感じられました。

でも、ただ無条件に小遣いとしてあげるのではなくあくまでも労働の代価として置いてあった点が粋な取り計らいだと感じました。
そういう事から労働の大切さや他人への優しさを学んだと思います。
それにあくまでも労働の代価だからよけいな気も遣う事もなかったと思います。

割と若いボク(実際は中年オヤジですが)が書くのも変ですが、昔の日本人の心は温かかった。

昔の医者も貧しいものからは治療費を取らなかったとか。
昔の学校の先生は貧しい生徒がいて弁当を持ってこられない生徒がいるとこっそり机の中に食べ物を入れてあげたりと。
確か宮沢賢治の作品にそのような事が書いてあった気がします。

昔の日本人は貧しくても今の日本人よりも心は豊だったのではないでしょうか?

今の日本では教師が女子学生を隠し撮りしたり、情けなくなります。
なんでこんな風になってしまったのでしょうか?

日本の良き伝統が薄れていくことはとても残念です。

それでも今回の震災の時も明らかになりましたが、他の国民と比べればまだまだ今の日本人も捨てたものではありません。
多くの人が大変な時も辛抱強く秩序を守りました。助け合いました。

そして日ごろから強要されなくても気が付けば誰かが掃除をし道もきれいに整えられています。

最近自分も日本人であることを誇りに感じます。

次は「新屋敷」です。

洋風の建物になっています。

とても美しい建物です。

暖炉もすばらしいです。

1階はダンボが趣味で集めたいろいろな物が展示されてあります。

目を引いたのは。

OTOMO製の自動車です。

OTOMO社って今は廃れてしまったのでしょうね?
仕様書とカタログまで残っていました。

なんでも丸森町では病院の次に買ったのだとか。

今でももし残っていたらすごいかったです。

なかなかレトロでかっこいい。
スーパーセブンに似ています!

でも当時は舗装されていなかったから乗り心地は最悪だったそうです。

2階は当時の街並みが再現されてあり、当時の写真も多数見られました。

昔の消防車。

次に向かったのは「童の蔵」です。

展示してあるのは懐かしいおもちゃ達でした。
竹とんぼ、昭和初期のものと思われる戦闘機の精巧な模型、凧。
2階には雛人形の写真など。

最後にのんびり庭を散策してきました。

小雨の降る中とても情緒あふれていました。

右に居宅を望む。

「屋敷神」

池。
覘くとたくさんの錦鯉がエサ欲しさに近づいてきました。

向こうに見えるのは居宅。

庭の中ほどの南寄りには東屋がありました。

少しのんびりしようと座ってみると。
何か雫の落ちる音が聞こえました。
「水琴窟」が仕掛けてあるようでした。
梅雨の時期の日本庭園にふさわしい音色を奏でていました。
少ししんみりしてしまいました。

東屋。

石造りのモニュメントがありました。
観賞のためのものと思われます。

きれいな石がはめこんであるみたいなので近づいてみました。

ビー玉がはめこんでありました。

とても充実した一時を過ごすことができました。

 

 

 

 

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詐欺師 松橋 和幸 ( Lolo Kazu ) 写真集 vol.2