一時帰宅のこと。そして将来へむかって

あれはいつのことだろうか。

おそらく1年半ほど前の事だろうか。

ずいぶん昔のことのようにも思えます。

初めての一時帰宅をしたのは・・・

もう日々の忙しさゆえに震災後の記憶はどんどん早い勢いで遠ざかっていきます。

思い出せるうちにできるだけの事を記録しておこうにもどうも思い出せなくなっています。

富岡町に住んでいたという事実さえも本当に昔の事のようにさえ感じます。

最近以前にもまして悲しいものを見ることができなくなってしまいました。

もう耐えられなくなってしまいます。

津波が押し寄せる映像、お年寄りが涙ながらに震災を語る場面、警戒区域から救出されるも亡くなってしまった生き物たちの写真。

世の中には目をそむけてはいけない事はたくさんあります。

でも今の自分には耐えられない事実です。

思い出せないのではなく、もしかしたら自分は思い出したくないのかもしれません。

昔飼っていたねこの しま次郎 のことも思い出したくはありません。

耐えられません。

とにかく1年半ほど前の事だったと思います。

初めて富岡町の家に帰りました。

自宅につくとバスから降りてすぐ「ぴーぴー!」「ぴーぴー!」と呼びました。

飼っていた ねこはしま次郎という名前でしたが呼ぶときは「ぴーぴー」と呼んでいました。

それはいつもニャーニャーとよく鳴くねこだったので ぴーぴー うるさいねこだなあと思ったからでした。

でも、もはや影も形もありませんでした。

それが幸いなのかはわかりませんが、ぼろ家なので屋根裏部屋の穴から外に出ていたようで部屋の中で餓死するという事は避けられました。

家の周りは草ぼーぼー。

人が住んでいたとは思えないありさまでした。

幸い瓦などが落ちたり、屋根が傷んで雨漏りをおこしていたりという事はありませんでした。

あんな古い家でも倒壊しなかったのにはびっくりでした。

家の前に置いていたトレノはもう乗れるかわからない状態で鳥の糞だらけでした。

庭には牛の糞が落ちていて。

トットコさんの小屋は破壊されていました。

死骸すらありませんでした。

きっとキツネか野良犬に食べられてしまったのでしょう。

家の中に入ってみるとかび臭いにおいが充満していました。

冷蔵庫の中のものは腐りきっていました。

家具は散乱し、強い余震が何度もあったであろうことを物語っていました。

最近の一時帰宅はかつての住民で許可証があれば割と短い手続きで警戒区域に入れます。

しかし、当初は手続きだけで2時間以上かかったような気がします。

しばらく待たされた挙句、そののち長い説明会があり、行政区ごとにバスに乗っていきました。

暑い夏でも分厚い防護服を着ました。マスクも付けて。

帰ってくると下着は汗びっしょりでした。

最近うわさで聞いた話では大熊町のダチョウは殺処分されたそうです。

殺すこともなかったのではと思いますが。なんでなのでしょう。

つい最近自宅に戻ったときは黒いイノブタが自宅の前の庭でエサを探していました。

家の中の物は多くがねずみの被害にあっていました。

家宝のひいおばあさんの時代から使っている民芸タンスすらねずみにかじられていました。

ジジの目もかじられ無残な姿になっていました。

ある議員は警戒区域の町を「死の街」と呼んで解任されました。

でも自分はいつも帰るたびにここは「死の街」だと感じています。

いずれは帰るのでしょうが、今は「死の街」です。

人は住めない、残された ねこや犬は死んでいく。家々は荒れ放題。

これが「死の街」でなくてなんですか。

最近昔の事を思い出そうにもあまり鮮明には思い出せません・・・

宮城県での仕事も決まりました。

職場内での辛いことも多々あります。

もう辞めようかと思ったこともありますが中にはいい人もいます。

だからもう少しがんばろうと思います。

いつ帰れるかはわかりませんが、自分はとりあえずここで、がんばれるだけがんばろうと思います。

ねずみにより目がとられたジジ

草原と化した田んぼ。自宅前にて

ジャングルと化した自宅裏

風呂場

台所

長い放置の末、エンジンのかからなくなった兄の車

このようなところに再び人は住めるのでしょうか・・・

 

 

進路南へ

大越体育館での数日中もいろいろなことがありました。ただ、当時のことはあまり覚えていませんし、前後関係もあいまいです。体育館にいる時、テレビが設置されていてニュースを見ることはできました。情報が不足している中、自分にとっては唯一の確かな情報源だったので、起きている時は大抵ニュースを見ていました。
依然、詳しいことはわかりませんでした。みんな情報を求めていました。
それでも原発で水素爆発が起きたことが報道されていて、大変な事態に陥っているのは明白でした。再臨界の危険もありました。総理大臣がヘリコプターで視察に来たことや、原発で作業をしていた東電社員さえも手におえず撤退するかもしれないなどと報道されていました。
いったい自分達はどうなってしまうのでしょうか?
また、他の土地でも大変な状態であることがわかってきました。宮城県では大規模なコンビナート火災が発生していること、予想以上の津波の被害などを知りとても驚きました。

こうした中で体育館でも別な場所に移ろうとする家族が増えてきました。それは、やはりここもじきに危なくなるかもしれないという危惧からでした。
三日も過ぎると当初は一杯だった体育館も半数程度までに減ったような気がします。残された人達は、みんなどこに行ったのだろう寂しくなったね、なんて話していました。
それに体育館の灯油も少なくなっていきました。大きなファンヒーターも一台また一台と灯油の節約のために消されていきました。体育館の人もなんとか手に入れようとしたとは思いますが石油は本当に不足していました。そもそもタンクローリーが来ないので供給は完全にストップしていました。
まだ雪が残る冬の最中、みんなで前の方に集まって寒さをしのいでいました。スキマにはテープで目張りをし、新聞紙を詰めて少しでも風が入らないようにしました。中ほどにはつい立をして、なるべく暖かい空気が逃げないようにしました。
自分がいる間、ファンヒーターはまだ数台は点いていましたが、その後もしかしたらすべて消えてしまったかもしれません。お年寄りもたくさんいましたので本当に心配でした。あの人達はその後どうしたろう? バスでまたどこかへ避難したのだろうか?

体育館に来て五日ほど経ったでしょうか? 自分達もとりあえず別なところに移ろうということになりました。
選択肢は二つありました。新潟かどこか南の方です。
すでに何人かは新潟に向かったという情報がありました。自分は、新潟は雪も多いし東京からも遠いので地震からの回復も遅れるだろうと判断しました。あてもありませんでしたが、とりあえず南に向かうことにしました。
ガソリンもあまりありませんでしたが仕方ありません。一か八かの賭けにでることにしました。もしかしたら南に向かえばガソリンスタンドもやっているかもしれません。
バスで避難してきた人も少なからずいました。それに比べれば幸い自分達は車もありましたし、地震発生の次の日に、いわきでほぼ満タンにしてありました。それでも半分ほどになっていたかもしれません。
「出かけるよ」と母に言いました。
こうして体育館を後にし、福島県を離れて進路南へと向かうことになりました。残された人達のことも心配ではありましたが、自分達のことで精いっぱいでした。

つづく

 

 

大越体育館

あれはまだ雪の残る寒い頃でした。

自分と母親は原発事故発生の翌日の夜、避難所を探していろいろなところをさまよいながら、ようやくとりあえずの避難所として大越体育館に置いていただける事になりました。

確かすでに200人ほどが避難していたでしょうか?

もうそこも一杯になりつつありました。

しばらくして来た家族はもう限界だという事で避難させてもらう事ができませんでした。

大型バスでどこかの町の住民も来ました。なんとか置いてほしいと頼んでいましたがやはり答えは同じでした。

入ると体育館の床に毛布が敷かれていて、みんなその上に布団を敷いて寝ていました。

各自数枚の布団や毛布や防寒着をお借りできました。

そして数か所に大きな温風ヒーターが置かれていて暖もとる事ができました。

みんな割と落ち着いていていました。

あの時はほとんどの人が数日我慢すれば家に帰れるだろうと予想していた事もあると思います。

食事はおにぎり、パンや牛乳、水などが支給されました。それらは主に災害対策本部(?)が用意したものだったと思います。

地元の方が準備してくれたものもありました。インスタントコーヒーや果汁100パーセントジュースもわずかでしたがあり僕もいただく事ができました。

なによりも嬉しかったのはやはり地元の方が用意してくれた豚汁です。

暖かいものが食べられるというのはとてもうれしい事でした。

ある日、まぜご飯のおにぎりも提供されました。

でも食べてみると糸が引きました。

においも少しおかしくて、もう鮮度が落ちていたのですね。

少し口にしてしまいましたが、すぐに気づきましたのでおなかをこわす事もありませんでした。

贅沢は言える立場ではありませんでしたし、いただけるだけで感謝しないといけないのですが、災害対策本部が用意したものよりも地元の方からの援助の方が心がこもっていたような気がします。

すこし残念だったのは一部のお年寄りですが、ご飯が支給される時に いかにも我先にと人ごみをかき分けてもらっていた人がいた事でした。

1人分の数も決まっているのに必要以上に持っていく人もいました。

あのような時だから仕方ないのでしょうけど、そんな姿を見てとても残念に思ってしまいました。そして自分は絶対にあーいう風にはならないと固く決意しました。

きっと人間というものは大変な時や追い込まれた時に本当の自分を出してしまうのでしょうね。

でも大抵の人はきちんとマナーよく順番を待って並んでいました。

それに数人の人はだいぶ汚れつつあるトイレ掃除などもしてくれていました。

数日経つと着ているものも気になってきます。

大越体育館は水も出ましたので、特に女性はトイレの流しで石鹸を使って洗濯をしていました。

ですので温風ヒーターの前は物干し場の様子を呈していました。

コンセントも何ヶ所かありました。

携帯電話の充電器を持っている人はそこに挿して充電などしていました。

ただ、注意もされましたが特に若い人が独占して使ってしまっていたようです。

でもきっとあそこは他の体育館などよりはずいぶん快適に過ごさせてもらえたと思います。

ボクは何もしたくなかったのでひたすら寝ていました。

ストレスを紛らわすために眠りました。

お風呂も入れませんので体中なんとなく気持ち悪く感じました。

確か体育館に避難して次の日だったと思います。

近所にお店があると聞きましたので母と買い物に出かけました。少しのお菓子とカップラーメンを買う事ができました。

母が下着を買うためにある呉服店にも入りましたが、ストーブにあたらせてくれて少しのお茶とお菓子をいただく事ができました。

「今はここは安全だけど、いつ自分たちもあなたたちと同じになるかわからないから」とおばあさんが暖かくもてなしてくれました。

とても不安な時だったのでそれが自分たちにはすごくうれしい出来事でした。

いつかもっと落ち着いたら、お礼をしに来ようと思いました。

あれだけ大勢の人がいればいろいろな情報も入ります。

携帯電話からネットを見て情報を得た人もいたのでしょう。

それにテレビも見る事ができました。

次の日かその次の日か、どのような経緯でかは忘れてしまいましたが、“数週間”は家に帰れないかもしれないという事がわかってきました。

そこで心配になったのがねこの事です。

一度もっと詳しい情報を聞くために富岡町役場の機能も果たしていた川内村に行く事にしました。

そのころはすでにガソリンは貴重なものになりつつありましたが仕方ありません。

川内村に行くとちょうど警察の方がいましたので現状を聞きました。

しばらくは町には入れないという事でした。

ねこを置いてきたからなんとか入りたいとお願いしても頑として無理だと言い張られてしまいました。

まだ警戒区域には指定はされてはいませんでしたが、安全を考えてというのがその理由だったように思いました。

いったい置いてきたねこ達はどうなってしまうのでしょうか?

体育館に戻った時、母と相談し僕だけ徒歩ででもいいから数日歩く事になってもいいから警察がいない裏道を通って家に帰ってみると提案しましたが何かあったら駄目だからと許してもらえませんでした。

何度も行くと言い張りましたが絶対に許してもらえませんでした。

母はバカが頭に付くくらい正直で真面目な人なので仕方ありません。それがいい時もあるのですが、昔からこういう時は小心者になってしまいます。

とにかく、もはや富岡町に入ることは叶わなくなってしまいました。

ねこも連れてくることもできなくなってしまいました。

つづく・・・

 

大越町のみなさんがもしこのブログを読む事がありましたら・・・

大変お世話になりました。

みなさんのご支援心より感謝いたします。

ご恩は忘れません。

 

 

避難所に向かって

次の日の朝早く母親に起こされました。6時前だったような気がします。

「町の防災無線で原発事故のため川内村に避難するようにいっているから早く非難しない」とと慌てていました。

あの日の事は昨日の事のように思い出されます。

ただあまり思い出したくありません。激しい後悔の気持ちが湧き起ってきます。そして言いようのない怒りと悲しみと・・・

こんな記録をつけていてもつい涙が出てしまいます。

そんな風に言われても、なんだか起きている事が現実の事とはとても思えませんでした。それにその時は事の重大さも気づきませんでした。

なんでも川内村に 「一時的」 に避難するためにバスが出るそうです。

でも自分はあまり大人数で行動するのが好きではなかったので母のぽんこつ軽自動車で行く事にしました。

どうせ ぽんこつだから道が悪くて傷がついても痛ましくないですから。

「自分の車で避難しても誰も文句は言わないから」って。

正直言うと近所の人たちはなんか苦手でした。

貴重品となんでそう思いついたのかは思い出せませんが、飼っている5匹のねこのうちの1匹(アメショーさん)を連れて行くことにしました。とっさの判断でした。

あとのねこ4匹となごやこーちん(鶏のトットコさん)は、連れて行く事など全く思いつきませんでした。

この瞬間がねこ達の命運を分ける事になろうとは思ってもみませんでした。

そしてこの事が原因で母は苦しみ、自分も罪悪感に悩まされる事になっていきました。

(2012.9.20現在。そのうち2匹は行方不明で、1匹はボランティアさんに救助されましたがまもなく死んでしまいました。1匹はめっきり弱ってしまいましたが生きています。)

自分は割とのんきな人なので気楽に考えていました。

「別に急がないから、とりあえずいわきに行ってガソリンを入れて、何か食べ物も買っていこうよ」と提案しました。

いわきに行ってみると、ガソリンスタンドは想像以上に混んでいてびっくりしました。

いわきはそんなに地震の影響などないだろうと思っていたからでした。

何件か売れ切れのお店もありましたが、まだやっているお店はありました。

給油量は一人20リットル限定ではありましたが、軽自動車はそれでほぼ満タンになりました。

少し走って大きなスーパーで買い物をする事にしました。

買い物を終えた母の話では残っているものはパンなどしかなかったという事でした。あと少しのお菓子は買う事ができました。

いわきから川内村に行くには山道を通った方が早いため、道を聞くために少し道を戻って警察署に寄りました。

しかし山道は土砂崩れで埋まってしまって通れないという事でした。

仕方なく来た道を戻るといわき方面に向かう車で対向車線は渋滞していました。なんでだろ?と思いましたが深く考えずに自分たちは富岡町に向かいました。

上手岡付近で、もう一度家の様子を見るのに帰ろうかとも思いましたが母が乗り気ではなかったのでそのまま川内村に行く事にしました。

しかしまたもや川内街道も途中がけ崩れがあったようで封鎖されていました。入り口には数台のパトカーが待機していて道をふさいでいました。

あとは288号線を通っていくしか方法はありませんでした。

288号線に入るとなんだか凄まじい渋滞になっていました。

途中ガソリンがなくなってしまったのか乗り捨ててある車もありましたし、ほかの車に乗り移っている人もいました。

川内村に近づくと警察が誘導していて、川内村は避難者でもう一杯だという事でした。

いったいどこに行けばいいというのでしょうか?

とりあえず警察も誘導していたのでさらに288号線を奥に進みました。

尋ねたところ大越体育館が空いているという事でしたので、そこに向かう事にしました。

そこは自分たちの1ヶ所目の避難場所になりました。

そこでテレビを見てわずかながらも大切な情報を得ることができました。

あのような大惨事の中だったから誰のことも責められません。それでも人のいろいろな みにくい面をみる事になりました。一方でおおきな優しさも。

つづく・・・

 

 

警戒区域に置いてあった車の保障について

MR2との初めての出会いはボクが高校生の時でした。

日曜日に町をぶらついていた時、1台の白い車が洗われている光景を目にしました。
ごく普通の日常的な光景でした。
ただその車が大変印象的で、当時は車には全く興味がなかったボクの心もつかむものでした。
車体後ろのエンジンフードが中のエンジンの存在を知らしめていました。

後でそれがMR2だという事を知りました。

当時印象に残った別な車は中学校の先生が乗っていたCR-Xだけでした。

それ以来いつかは必ずMR2に乗りたいと思っていました。
しかし、周りがスポーツカーに反対していたので長く乗ることはありませんでした。

そして、かれこれ10年ほど前にようやく赤いMR2を手に入れました。

それから東京に行っていたり、兄のトレノもあったりでMR2は庭に置いてありました。
でも、定期的にエンジンはかけ、庭で動かしていました。エンジンオイルも自分で定期的に交換していました。
程度はそう悪くなかったと思います。

地震が起きた時は母親の車で避難しました。
軽自動車なら小回りも効きますし、燃費もいいです。
当然MR2は庭に置きっぱなしでした。

宮城県の借り上げ住宅に避難してきたのは23年6月でした。
それからしばらくして以前の職場に復帰することにしました。
でも、以前の職場は南相馬市にありましたので遠いです。
通勤用の車もありません。

そこで通勤用に古い軽自動車を買いました。
古いと言っても車は車、なんだかんだで20万円はしました。
それから片道2時間の通勤が始まりました。
毎日、朝は6時半に家を出て、帰りは11時位になっていました。

さて、MR2を警戒区域から持ち出したのは震災が起きた23年の12月でした。

持ち出しの日、ようやく富岡町の自宅についてMR2のエンジンフードを開けてみると、エンジンの上にネズミが巣を作っていたのでしょうか?いろいろな生ごみのようなものが残っていて、かなりの汚れでした。
手入れをしないと赤い車は退色が早いです。半年も放置していたので色もかなり褪せてしまっていました。
鳥の糞も付着し、コケも生えていました。
それでも、持ってきたバッテリーをつなぐとなんとかエンジンはかかりました。

それから1度は警戒区域で動かなくなったりしたものの、修理工場で修理してとりあえず自走できるまでになりました。

後日修理工場からMR2を引き取り、借り上げ住宅のある宮城県まで走ってきました。

真冬の東北道を経由しなければなりませんでした。しかもノーマルタイヤで。

気を使って運転してきたので、もうすっかりぐったりでした。

当時は、精神的な苦痛の賠償も含めて、まだ東電から賠償金もあまりもらっていませんでした。
身の回りの物もそろえなければなりませんでした。お金もなく、足になる軽自動車もありました。
MR2は持ち出したものの結局車検に出さずにそのままになっていました。

昨年末、軽自動車の調子が悪くなり廃車しましたので、今年の初めになり再びMR2に乗ることにしました。
車検に出し、冷却水もエンジンオイルも交換しました。
その他、前から悪いところもあったのでついでに修理しました。

東電のために半年以上警戒区域内に放置せざるをえなかった訳です。
だから、修理費のうち半年放置すれば悪くなっていたであろう部品の交換費用を請求しました。
エンジンオイル、冷却水、ブレーキフルードなど消耗品の分です。

ついさっき、「自走できた車の分は支払いません」という連絡がありました。
半年も放置せざるを得ない状況を作っておいて、そんな話はないと思いませんか?
すぐに持ち出せれば、ボディの色も退色しませんでしたし、汚れやサビも発生しませんでした。
通勤のために軽自動車だって買う必要もなかったのですよ。
いっそ持ち出さないで、廃車にしてその分賠償請求した方が“もうかりました”

いくら事情を話しても払わないとしか言いません。

早い話が迷惑をかけておいて何もしないと言う事です。

この怒りはどこにぶつければいいのでしょうか?

最近東電の暴挙は目に余るものがあります。
請求するためにはなんでも証明書を用意しろと言います。
証明書を準備するにしたってかなりの時間と労力がかかります。
ボクも今回、車の修理費を請求するにあたってわざわざ陸運局に行って保存記録なるものを取得しなければいけなかったわけです。
慣れない事でしたし、結局1日つぶれました。
そういう末端で苦しんでいる者の気持ちも東電は理解しているのでしょうか?

人に多大な迷惑をかけておき、自分たちは高い給料をもらっています。東電に勤めていた知り合いの月給は100万という事でした。
自分たち庶民は月給20万程度で過酷な労働をしているのにです。
それで、電気料金の値上げを申請するなど言語道断だと思いませんか?

まず、自分たちで努力すべきです。

日本全土にこれだけ迷惑をかけておきながら平然としている企業は東電のみです。

今も昔も東電は嫌いです。

ただただ怒りがこみあげてきます。

 

 

甲状腺の病気

2011年11月のことでした。

それまでいろいろな事がありましたが、震災以前の職場に復帰し健康診断がありました。

ボクはあまり丈夫な方ではありませんが、とりわけ何かの病気の自覚症状もありませんでした。

強いていえば、祖母が大腸がんで亡くなっていますし、自分も胃腸は弱いので自覚症状はなくとも大腸がんにはいつも警戒していました。

1ヶ月後、検査結果がきました。

確か2年前にも健康診断は受けていましたし。その時は異常はありませんでした。今回も何もないだろうと思っていました。

しかし、結果は・・・

要検査でした。血液の値に異常がみつかりました。

肝臓の病気か白血病の恐れがあるという事でした。

とうとう年貢の納め時が来たか・・・

でも自分は昔から40歳まで生きられれば満足だと考えていました。

年老いて周りに迷惑をかけてしまうなら、そして嫌がられて長生きするなら、いっそ惜しまれて若いうちに死んだ方がよいのではないかと思う事がしばしばあったからです。

自分は人並みの普通の人生が送れればそれで満足でした。

結婚して子供ができて、ある程度収入もあって・・・

でも結果的には独り身です。おそらく自分には結婚は夢のまた夢です。

職場もいろいろな事があって転々としてきました。人間関係でいつも失敗してしまいます。

人生の負け犬である自覚はあります。

人によって幸せの定義も違うのは確かだとは思いますが、自分の人生は幸せとはほど遠い人生です。

だから、本当のところ、たとえガンであったとしても悔いはありませんでした。

そうこうしているうちにお正月も来て、1月に入ってまもなく自宅近くの病院に行きました。

再び受けた血液検査の結果は・・・。

もっと大きな病院である仙台市立病院への紹介状が書かれ、精密検査を受ける事になりました。

やはり予想通りか。

それから3週間ほどして私立病院で検査を受けました。

血液を大量に採取していろいろな検査をしたようです。1日に2回も採血し、計、注射器5本分ほど(?)採ったようでした。
もちろんレントゲンやCTなども受けました。

検査の結果は甲状腺機能亢進症というものでした。

まったくの意外な結果に驚きました。

甲状腺?原発事故による事故の影響なのでしょうか?

医者に伺ったところ原発との関連はわからないという事でした。医者も軽はずみな事は言えないというのも理解できます。

原発事故から半年程度で発症するのかという疑問もありましたが、僕の場合はまだ症状も軽いから発症したばかりであるとも考えられました。

果たして原発事故との因果関係はあるのでしょうか?

それとも原発事故前からすでに発症していたのでしょうか?確かに、少し前から多少の動悸や手の震えはありましたが、他は自覚症状はありませんでした。

真実はわかりません、ただわかっている事は自分は甲状腺の病気になったという事です。

調べてみると甲状腺機能亢進症は決して軽い病気ではないようでした。悪化するといろいろな悪い症状が出てくるそうです。

手術か薬による治療か迷いました。

薬は強い薬で副作用が怖いそうです。へたをすると命をおとすような。誰でも効くわけではないそうです。

それに一生飲み続けないといけないようでした。検査も定期的に受けないといけません。それには採血つまり注射をしないといけません。痛いです。

一方の手術は初めから嫌でした。首回りを大きく開き、生々しい傷も残ります。
それにやはり甲状腺を取ってしまうので一生ホルモン剤は飲まないといけないそうでした。

どっちにしろ一生薬は飲み続ける必要があります。

でも自分の考えはある程度すでに固まっていました。副作用が出ない限り、薬による治療をお願いしょうと。

あれからほぼ3週間おきに採血をし薬を飲み続けています。治療を初めて半年以上が経過しました。

幸い副作用も出ずに、最近は薬の量も減りました。

東電は因果関係が証明できなければ補償はできないの一点張りです。

まったく関係ないとも言い切れないとは思いますが。体のことなのに因果関係などいったいどのように証明しろというのでしょうか?
ただ、これからボクとおなじように甲状腺に異常がみつかる人が出てくるなら、その時東電も国も対応を考えざるをえなくなるでしょう。実際に、数人ではありますが甲状腺がんにかかっている子供がみつかったと報道されています。
被災者なので今は治療費はかかりませんが、念のため通院した際の明細はすべてとってあります。毎月通院するにしても大変な労力と時間がかかっています。

ボクももう少しだけ生きられそうです。

そうだよね。生きたくても生きられない人もいるし、丈夫でなくても五体満足で手も足もあります。

視力も落ちてはいるけど眼も見えます。耳も聞こえます。

一人前でなくとも好きな機械設計の仕事もしています。

もう少しだけ、いや、命続く限りはがんばろうと思っています。

例え人並みの幸せを得ることができなくても・・・

 

 

3.11

ボクは、平成二十二年の秋までの約五年間は東京に住んでいました。しかし、家庭の事情などで、一人暮らしをしている母がいる福島県浜通りの富岡町に帰ってきました。その後まもなく被災しました。
あの日、平成二十三年三月十一日は会社にいました。南相馬市のとある製造業の会社です。よく覚えているのは、地震のほんの少し前に時計を見たことです。あっ、もう少しで三時の休みなんだな。その時は、会社の二階にある設計室で一人図面を描いていました。
それからほどなくして、あの地震が発生しました。三十年ほど生きてきて今まで経験した地震にも揺れの大きなものはありましたが、大抵しばらくすれば治まりました。だから初めは、揺れてもすぐに治まるだろうと高をくくって椅子に座り、じっと待っていました。
しかし、地震が治まる様子はまったくありませんでした。これはまずいと思い始めました。とりあえず机の下にもぐりこみました。机ごと左右に大きく揺さぶられました。なかなか揺れは治まりませんが、外に行くにも歩くことすらできませんでした。壁には亀裂が走り、モルタルがぼろぼろと崩れてきます。部屋の中の図面などがどんどん散乱していきます。砂煙がもくもくと部屋に充満していきました。
実に五分ほどの長く強い揺れでした。これは今まで経験した中で一番大きな地震だなと感じました。
幸い、会社は中小企業ではありますが、建物自体は基礎としての杭を何本も打って建てられていたそうなので倒壊しませんでした。倒壊したら自分は生き埋めになっていました。
揺れが治まり、ようやく設計室の外に出てみると、一階は物が散乱し惨憺たる状況でした。設計室よりもひどい状況でした。天井も落ちたところがあります。カウンターの上の置物も床に落ちてバラバラに砕け散っていました。床全体をほこりが覆っていました。
逃げ遅れたのは自分一人のようで他の人は庭に集まっていました。みんなびっくりはしたのでしょうけど、割と冷静に雑談していました。携帯電話で地震の震度を調べたり、家に電話していました。しかしほどなくして電話はまったく通じなくなりました。
すると二度、大きな音が聞こえてきました。ドーンと海の方で何かがぶつかるような音でした。近くの火力発電所からは黒い煙が出ています。後日知ったことですが、この時すでに会社の数人のご家族が津波にさらわれて亡くなったそうです。大きな音は津波の音だったのです。ただこの時、これから先に起こる各自の苦難と試練は誰も予想などしなかったに違いありません。
そうこうしているうちに社長や課長などの人達が相談して、みんな自宅が心配だろうからということで、そこで解散になりました。だいたい十五時半になっていました。

ボクがそこで会社を去ってから他の従業員に再会するのは実に三ヶ月後になりました。

国道六号線を南に向かってしばらく走ると、先の橋が通行止めになっているということでした。だから、これまで通ったことはありませんでしたが山側の裏道を通っていくことにしました。山側の道は通ったことがなくわかりません。でも他の車も国道を迂回して連なって走っていました。その後をくっついて南に向かえばとりあえず帰れるだろうとのんきに考えながら走りました。通勤途中で今までよく見かけた車も何台か走っていて、みんな帰宅していくのだなー、などと考えていました。中にはバンパーがなくなっている車ともすれ違いました。ありゃりゃー、ぶつけたのかな? 動けなくなっている車、乗り捨てられている車もありました。渋滞は凄まじいものがありました。国道の大きな橋は通行止めなので、もっと山側のすれ違うのがやっとという橋を渡りました。その近辺はとりわけひどい渋滞でした。橋全体がもりあがったように段差になっていて、みんなゆっくりと通過していたからでした。こんな時はシャコタンの車は大変なのだろーなー、なんて考えながらのんきでした。
だいぶ走りましたが、そうこうしているうちに隣町である小高町の商店街に着きました。そこで現実の重大さに気づくことになりました。

とてもひどかったです。これは果たして現実なのでしょうか? その光景にふと一瞬頭の中が真っ白になりました。かつては老舗のお茶屋さんだったのでしょうか? 大きな二階建ての木造屋敷が文字通りぺちゃんこになっていました。面影を留めるのは屋根だけでした。中に人はいなかったのでしょうか? 無事だったのでしょうか? 倒壊した家、塀が倒れている家などが半数だったかもしれません。まるで空爆でも受けた戦場のようでした。

そうした光景に直面してようやくことの大きさに気づき、自宅のことが心配になってきました。ボクの家は木造の築五十年ほどのおんぼろ屋敷だからです。あー、家もつぶれ、もしかしたら母も下敷きになって死んでしまったのではないだろうかと不安がよぎりました。

それからは帰るのに必死であまりよく覚えていません。山道も、めちゃめちゃになった道も車が通れればおかまいなしにどんどん走らせました。普段、悪路は車の底を傷めるので走ったことはありませんでした。でも、そんな車のことよりもとにかく家に帰りたいとそればかりでした。

とりあえず走り慣れた六号線に出てみようと、浪江町だったでしょうか、高架橋を渡ろうとしました。でも他の車はなぜか引き返してきます。たぶん通れないのだろうと予想しボクもUターンして引き返しました。後で知ったのですが、六号線まで津波が来たため通れなくなっていたそうです。何ヶ所も通行止めで行ったり来たりを繰り返しました。でも着実に南には向かっているようでした。

運が良かったのは数日前にガソリンを満タンにしていたことでした。それでも半分ほどなくなった時、家までもつかひどい不安に襲われました。途中かろうじてやっていたガソリンスタンドはすごい車の列でどれくらい待たされるのかはわかりませんでした。まずは家に向かうことを優先しました。

十五時半に会社を出て四十キロほど離れた家に着いたのは確か二十時か二十一時過ぎでした。

メーターを見ると、ガソリンは底をつく手前でした。本当に「トレノ」はがんばってくれました。かなり無茶させましたがパンクもしないでボクを家まで連れて帰ってくれました。車は生き物ではありません、ただの機械です。でも、なんだか最後の力を振り絞ってボクを家に連れて帰してくれた、そうして普段大事にしてあげている恩返しをしてくれた、そう思えてなりませんでした。

あー、家は大丈夫だった。自宅を見るなりもう気が抜けました。母は? 家に入るなり「大丈夫だったか?」と声をかけると、割とのんきな調子で母が出てきました。帰り道でのことを話すとびっくりした様子でした。

もう水も出ません。電気もつきません。ガスも。その日は、石油ストーブでやかんに残っていた水を沸かして、家にあったカップラーメンとクッキーを食べました。
懐中電灯とストーブの明かりで家の中はぼんやり明るかったのですが、停電のため、あたりは真っ暗です。国道の方を見ると大渋滞でした。漆黒の闇の中、そこだけ、光の列がどこまでも、どこまでも続いていました。真夜中までそのような渋滞は続きました。ちょうど自宅の隣は大きな駐車場になっていますが、そこで一夜を明かそうとしている人もいました。車を乗り捨ててどこかへ行ってしまった人もいました。
テレビもつきませんし、暗くて何もできないので、その日はそれで寝ることにしました。何よりもボクも母も無事だったことでほっとしていました。

こうして大変だった一日も過ぎていきました。しかしそれは、そこからはじまる原発事故によってもたらされた試練の日々の始まりとなりました。

つづく

 

 

愛猫とのかけがいのない思い出を風化させないために

愛猫とのかけがいのない思い出を風化させないために・・。

そして、まだ、元気に生きていることを願って・・。

 

あれはまだ、東京に住んでいる時のことでした。四年ほど前になるでしょうか。足立区の小さな会社の機械設計の仕事をしているころのことです。ある日、動物病院も経営している上司の家の前に小さなねこが捨てられていたそうです。自分は自宅で一人暮らしでしたし、福島県の母のところにはたくさんねこがいましたので、自分もかわいそうな捨てねこでも飼ってみようかと思っていた矢先でした。以前から、シャムねこの雑種などがいいかな、と思っていました。

今朝、動物病院の前に子ねこが捨てられていたと聞いて、初めは好奇心で見てみることにしました。実際に見に行ってみると本当に小さい手のひらサイズのねこでした。動物病院のスタッフの方が、ボクの方へその子ねこを差し出しました。それで、受け取って抱いてみました。すると、ごろごろととても懐いていました。あまりのかわいさに、ついその場で、あと先考えずに飼うことを即決してしまいました。それが、しま次郎との初めての出会いでした。
その日は、上司のところでワクチンの注射を打ってもらい、多少のエサももらって帰宅することにしました。

当時は電車で通勤していたので、しま次郎は小さなダンボール箱に入れられて一緒に帰ることになりました。電車の中でも全然騒ぐこともなく静かにしていたのがとても印象的でした。途中で死んでしまったのかな、と思うほどでした。東京は交通量も多いですし、自宅も幸い広かったのでお座敷ねことして飼うことにしました。

なかなか猫砂で用を足してくれないのには参ってしまいました。それになぜかノミが大量に発生するようになってしまいました。畳の上で飛び跳ねているのが目に見えるほどでした。きっと古い家だったからなのでしょうか? それでも独り暮らしのボクにとってはやはりかわいくて心が和みました。

ボクが仕事に行っている間は一匹でつまらないだろうと思い、欄間から紐をたらし、その先にいらない靴下をぐるぐる巻きにした「サンドバック」を作ってあげました。それでいつもねこパンチの練習をしていました。これは将来ボクサーになるな、と楽しみにしていました。

自宅に帰ると必ずお出迎えをしてくれました。自分が机で勉強していると椅子の背もたれの上でずっとおとなしくしていました。ねこ枕ですね。たまにこくりこくりとして背もたれから落ちそうになっていました。

一度、大変な失敗をしてしまったことがありました。週末はたびたび福島県の母のところに帰っていましたので、しま次郎はお留守番でした。そういう時は給餌機を二つセットして出かけました。
もう夏が近づき、日中は締め切っていると部屋はとても暑くなってきていました。
その週末も給餌機にモンプチをセットして出かけました。
帰ってきて異変に気づきました。暑さでモンプチが傷んでしまって、ウジがわいていました。しま次郎は下痢になってしまいました。かわいそうなことをしました。

しばらく、そんなしま次郎との穏やかな日々が続いていました。

 

しかし、しだいに自分自身のまわりでいろいろなことが起きはじめました。

五年ほど勤めた会社が閉鎖することになりました。所長の体調不良が主な原因のようでした。それに、世の中はリーマンショックで不景気でもありました。会社に行っても仕事らしい仕事をしない日々が数ヶ月続いていたような気がします。そして、平成二十二年一月に閉鎖になりました。所長とはとても仲が良かったのですごく残念でした。

その後、職業訓練学校に行くことになりました。三次元のCADを勉強することができました。それは幸いでしたが、失業者の手当てでしたので収入はさらに少なくなりました。

その年の十二月には新しい仕事が見つかりました。しかし、他の従業員との折り合いが悪く試用期間中に早々と退社することにしました。辞める時、うれしいことにその会社の社長はもう少し続けるようにと励ましてくれました。でも、やはり辞めてしまいました。技術職ですので仕事を教えてくれる人と仲が悪いととても勤まりません。

それからしばらくは、アルバイトをしていました。
それらの期間、とても貧しい生活を強いられ、自分は米しか食べられないようなこともありました。数食抜きのこともありました。でも自分は食べなくても、しま次郎には必ず缶詰のエサをあげました。ねこに罪はないですから。

それからも大変なことが続きました。施設に入っていたアルコール中毒患者の父親が、手に負えないということで施設を追い出されることになりました。父親との関係は最悪でしたので、父親が帰ってくるとなればボクは自宅を出ないといけません。

こうした経緯で再び、福島県、富岡町の母のところに帰ってくることになりました。もちろんしま次郎も連れてきました。やはり電車の中でもおとなしくしていて、それを母親に話すととても感心していました。
それからしばらくして機械設計の仕事も見つかり生活も軌道に乗りはじめ、穏やかな日々が続きました。たまにケンカをすることもありましたが、しま次郎も他のねことうまく生活していました。ボク自身もだいぶ富岡町の生活に慣れたその時、平成二十三年三月十一日を迎えることになりました。

そして次の日の朝が、図らずもしま次郎との別れの時となってしまいました。探しましたが、現在も行方不明です・・。

拾った当時のしま次郎

震災少し前のころのしま次郎

 

 

好きな詩

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

だれもが知っている詩です。

自分も小さい時から冒頭部分くらいは知っていました。

しかし、大人になってもう一度読んでみると、その優しさと意志の強さに感動しました。

そして何が本当の幸せなのかを再確認させてくれました。

欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている

1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆる事を自分を勘定にいれず

野原の松の林の影の小さな茅葺屋根にいて

南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い

みんなにでくの坊と呼ばれ、ほめられもせず

そういう者にわたしはなりたい

穏やかな心、人への優しさに満ちた心をもつこと、たとえ貧しくてもそれが本当の幸せではないでしょうか?

 

 

人間の光と影ー影(1)

ある日、スポーツセンターの職員の方が怒鳴り声をあげていてびっくりしました。

「あなたのような人はいなくていいから出て行ってください!」

事情をお聞きしてみたところ支援物資の水を1箱も勝手に自分の車に持って行ったそうでした。

当時いろいろなところから支援物資の援助がありスポーツセンターには結構な量の食べ物や古着やその他日用品が置いてありました。食べ物は職員室の前に置いてあって、他のものは2階に置いてありました。
必要なものを職員に話して職員から受け取るというのがルールでした。

ある時はやはり小さな子供のいる若いお母さんがこそこそとカップラーメンを1箱ごっそり持って行きました。

たまたま自分はそれを見ていてびっくりしました。

今の若い人は譲り合いの気持ちがないのかなと思ってしまいました。

確かにみんな少しでも多くの食べ物を確保しておきたかったのだと思います。
家族がいれば家族のことを守りたいという気持ちも理解できます。
でも他の人の事も考えなかったのでしょうか?
不安で苦しいのはあそこにいた人みんな同じだったはずです。ほとんどの人がマナーよく過ごしていたのになぜ一部の人はそのような行動に走ってしまったのでしょうか?
それにスポーツセンターではちゃんと3度のご飯を提供してくれていてどこよりも待遇はよかったはずです。そんなに貪欲に食べ物を集める必要もなかったはずです。

スポーツセンターでは掃除当番が決められていました。
合宿する学生も掃除はしていたそうです。
そこでやはりみんな嫌がるのはトイレ掃除です。
率先して掃除する人はいません。

結果自分たちが2階の南側の当番になりました。もう1家族と交代のはずでした。

しかし・・・

もう片方の家族はほとんど掃除しませんでした。掃除してもただほうきではくだけでした。

人の事を責めるつもりはありません。
きっと自分も知らないうちに他の人に嫌な思いをさせた事もあったかもしれません。
でも、以前から自分は大変な時こそ本当の自分が出るのだからそういう時こそしっかりしないといけないと自分に言い聞かせてきました。それが自分の信条でした。

地震発生後もずっとそう決意してきました。だからこれだけは言えます。

自分たちの当番の時は、きちんと床も便器も雑巾がけをし柄のついたブラシで中もきれいにしました。

本当は自分だってトイレ掃除なんてしたくありませんでしたが、施設にただで置いてもらっているのだから、ご飯だって食べさせてもらっているのだからと精一杯掃除をしたつもりです。

普段は見えない事でもふとした時にその人の本当の姿がわかるものだと思います。
完全な人はいません。つい我先にと思ってしまいます。それはみんな同じだと思います。
きっとそれを克服するのは他の人への思いやりの気持ちや感謝の気持ち、それに自制心だと思います。
自分だって家族には嫌な思いをさせた事もたくさんあると思います。家族だとつい遠慮なしに文句を言ってしまいます。

でも、いつでも人の心の痛みを理解できる穏やかな気持ちを持った人に自分はなりたいです。

つづく