3.11

ボクは、平成二十二年の秋までの約五年間は東京に住んでいました。しかし、家庭の事情などで、一人暮らしをしている母がいる福島県浜通りの富岡町に帰ってきました。その後まもなく被災しました。
あの日、平成二十三年三月十一日は会社にいました。南相馬市のとある製造業の会社です。よく覚えているのは、地震のほんの少し前に時計を見たことです。あっ、もう少しで三時の休みなんだな。その時は、会社の二階にある設計室で一人図面を描いていました。
それからほどなくして、あの地震が発生しました。三十年ほど生きてきて今まで経験した地震にも揺れの大きなものはありましたが、大抵しばらくすれば治まりました。だから初めは、揺れてもすぐに治まるだろうと高をくくって椅子に座り、じっと待っていました。
しかし、地震が治まる様子はまったくありませんでした。これはまずいと思い始めました。とりあえず机の下にもぐりこみました。机ごと左右に大きく揺さぶられました。なかなか揺れは治まりませんが、外に行くにも歩くことすらできませんでした。壁には亀裂が走り、モルタルがぼろぼろと崩れてきます。部屋の中の図面などがどんどん散乱していきます。砂煙がもくもくと部屋に充満していきました。
実に五分ほどの長く強い揺れでした。これは今まで経験した中で一番大きな地震だなと感じました。
幸い、会社は中小企業ではありますが、建物自体は基礎としての杭を何本も打って建てられていたそうなので倒壊しませんでした。倒壊したら自分は生き埋めになっていました。
揺れが治まり、ようやく設計室の外に出てみると、一階は物が散乱し惨憺たる状況でした。設計室よりもひどい状況でした。天井も落ちたところがあります。カウンターの上の置物も床に落ちてバラバラに砕け散っていました。床全体をほこりが覆っていました。
逃げ遅れたのは自分一人のようで他の人は庭に集まっていました。みんなびっくりはしたのでしょうけど、割と冷静に雑談していました。携帯電話で地震の震度を調べたり、家に電話していました。しかしほどなくして電話はまったく通じなくなりました。
すると二度、大きな音が聞こえてきました。ドーンと海の方で何かがぶつかるような音でした。近くの火力発電所からは黒い煙が出ています。後日知ったことですが、この時すでに会社の数人のご家族が津波にさらわれて亡くなったそうです。大きな音は津波の音だったのです。ただこの時、これから先に起こる各自の苦難と試練は誰も予想などしなかったに違いありません。
そうこうしているうちに社長や課長などの人達が相談して、みんな自宅が心配だろうからということで、そこで解散になりました。だいたい十五時半になっていました。

ボクがそこで会社を去ってから他の従業員に再会するのは実に三ヶ月後になりました。

国道六号線を南に向かってしばらく走ると、先の橋が通行止めになっているということでした。だから、これまで通ったことはありませんでしたが山側の裏道を通っていくことにしました。山側の道は通ったことがなくわかりません。でも他の車も国道を迂回して連なって走っていました。その後をくっついて南に向かえばとりあえず帰れるだろうとのんきに考えながら走りました。通勤途中で今までよく見かけた車も何台か走っていて、みんな帰宅していくのだなー、などと考えていました。中にはバンパーがなくなっている車ともすれ違いました。ありゃりゃー、ぶつけたのかな? 動けなくなっている車、乗り捨てられている車もありました。渋滞は凄まじいものがありました。国道の大きな橋は通行止めなので、もっと山側のすれ違うのがやっとという橋を渡りました。その近辺はとりわけひどい渋滞でした。橋全体がもりあがったように段差になっていて、みんなゆっくりと通過していたからでした。こんな時はシャコタンの車は大変なのだろーなー、なんて考えながらのんきでした。
だいぶ走りましたが、そうこうしているうちに隣町である小高町の商店街に着きました。そこで現実の重大さに気づくことになりました。

とてもひどかったです。これは果たして現実なのでしょうか? その光景にふと一瞬頭の中が真っ白になりました。かつては老舗のお茶屋さんだったのでしょうか? 大きな二階建ての木造屋敷が文字通りぺちゃんこになっていました。面影を留めるのは屋根だけでした。中に人はいなかったのでしょうか? 無事だったのでしょうか? 倒壊した家、塀が倒れている家などが半数だったかもしれません。まるで空爆でも受けた戦場のようでした。

そうした光景に直面してようやくことの大きさに気づき、自宅のことが心配になってきました。ボクの家は木造の築五十年ほどのおんぼろ屋敷だからです。あー、家もつぶれ、もしかしたら母も下敷きになって死んでしまったのではないだろうかと不安がよぎりました。

それからは帰るのに必死であまりよく覚えていません。山道も、めちゃめちゃになった道も車が通れればおかまいなしにどんどん走らせました。普段、悪路は車の底を傷めるので走ったことはありませんでした。でも、そんな車のことよりもとにかく家に帰りたいとそればかりでした。

とりあえず走り慣れた六号線に出てみようと、浪江町だったでしょうか、高架橋を渡ろうとしました。でも他の車はなぜか引き返してきます。たぶん通れないのだろうと予想しボクもUターンして引き返しました。後で知ったのですが、六号線まで津波が来たため通れなくなっていたそうです。何ヶ所も通行止めで行ったり来たりを繰り返しました。でも着実に南には向かっているようでした。

運が良かったのは数日前にガソリンを満タンにしていたことでした。それでも半分ほどなくなった時、家までもつかひどい不安に襲われました。途中かろうじてやっていたガソリンスタンドはすごい車の列でどれくらい待たされるのかはわかりませんでした。まずは家に向かうことを優先しました。

十五時半に会社を出て四十キロほど離れた家に着いたのは確か二十時か二十一時過ぎでした。

メーターを見ると、ガソリンは底をつく手前でした。本当に「トレノ」はがんばってくれました。かなり無茶させましたがパンクもしないでボクを家まで連れて帰ってくれました。車は生き物ではありません、ただの機械です。でも、なんだか最後の力を振り絞ってボクを家に連れて帰してくれた、そうして普段大事にしてあげている恩返しをしてくれた、そう思えてなりませんでした。

あー、家は大丈夫だった。自宅を見るなりもう気が抜けました。母は? 家に入るなり「大丈夫だったか?」と声をかけると、割とのんきな調子で母が出てきました。帰り道でのことを話すとびっくりした様子でした。

もう水も出ません。電気もつきません。ガスも。その日は、石油ストーブでやかんに残っていた水を沸かして、家にあったカップラーメンとクッキーを食べました。
懐中電灯とストーブの明かりで家の中はぼんやり明るかったのですが、停電のため、あたりは真っ暗です。国道の方を見ると大渋滞でした。漆黒の闇の中、そこだけ、光の列がどこまでも、どこまでも続いていました。真夜中までそのような渋滞は続きました。ちょうど自宅の隣は大きな駐車場になっていますが、そこで一夜を明かそうとしている人もいました。車を乗り捨ててどこかへ行ってしまった人もいました。
テレビもつきませんし、暗くて何もできないので、その日はそれで寝ることにしました。何よりもボクも母も無事だったことでほっとしていました。

こうして大変だった一日も過ぎていきました。しかしそれは、そこからはじまる原発事故によってもたらされた試練の日々の始まりとなりました。

つづく

 

 

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