今日も富岡町の自宅の片付けに行ってきました。
国道6号線を南下し片道約3時間半の道のりです。
相変わらず遠いです。しかも、いつも通り運転はボク1人です。
国道6号線の通行証を確認するバリケードを通過し富岡町に入ったあたりでふと昔の事が思い出されました。
あー、小さい時は家族のだれも車を持っていなかったから町までは半日かかったなぁ。
でも、帰りにあそこで ばあさんにたい焼きを買ってもらったなぁ。
みんなで歩いたのも楽しかったなぁ。
ばあさんにはあまり良くしてあげられなかったなー。
そうそう、家の前の水路では昔は川エビなど採れったけ。
ホタルもいたなぁ。
昔の記憶がまざまざと甦ってきました。
ボクは学生時代は東京にいました。
でも、春休みも、夏休みも、冬休みも、毎年祖母のいる富岡町で過ごしました。
小学生のころは部落にも友達がいて、休みのたびに一緒に遊びました。
「探検」と称して川岸を散策したりしました。
一緒に海釣りをしたりもしました。
ラジコンで遊んだりもしました。
裏の堤でコイを捕まえたりしました。
家にも遊びに行って、時には喧嘩もして。
中学生になると受験勉強で忙しくなったこともあったのか自然に疎遠になってしまいました。
でも、楽しい思い出です。
祖母はちょっと頑固でした。
だから喧嘩も結構しました。
最後の方は痴ほう症になってしまったので大変でした。
でも、かわいがってもらいました。
高校を卒業して富岡町に引っ越すときには台所も改築して、ボクの部屋も増築してくれました。
もう亡くなって10年くらいになります。
どんなに古くても誰も、大切な写真のつまったアルバムを乱暴に扱ったりしないと思います。
むしろ大事にして、時折眺めては昔の思い出に思いを馳せると思います。
だからこそ今回津波で流された写真も大事に回収され、ボランティアによって1枚1枚洗浄と復元がなされたわけです。
あるものは元の持ち主に返されていきました。
思い出とはかけがえのない大切なものです。
明日を生きるための原動力にもなります。
原発被災者にとってもふる里とはそういうアルバムのようなものなのです。
町そのものがアルバムなのです。
町を静かに歩けば昔の記憶が自然と甦ってきます。
家だってそうです。
今日も自宅に帰った時、薪ストーブを見て母がしんみりと話していました。
「冬になるとここは暖かいからみんな(ねこ)で丸くなって寝ていたのに、みんな死んじゃった」って。
ボクと祖母と母と3人、それとねこ達と過ごした思い出の場所なのです。
長いこと警戒区域にとり残され、家の中はネズミの糞が散乱し、ネズミの小便のにおいとカビのにおいが充満していたとしても。
蜘蛛の巣だらけになっていたとしても、埃と汚れにまみれていたとしても思い出の残る大事な場所なのです。
ボクたちは、そのような大切なアルバムのような大事な思い出の残る町も家も奪われてしまいました。
ボクの場合はいつかまた戻れるという希望がありますが、双葉町、大熊町のほとんどの方は戻る目途は全くついていません。
原発により大事なふる里を奪われてしまいました。