慶応大学病院に桜咲く

母の四回目の治療も無事に済みました。
そして、今日は退院の日でした。

朝の4時に起きていつもの慶応大学病院に迎えにいきました。

春は希望の季節です。

東京はとても暖かくなっていました。
奇しくも慶応大学病院の桜は満開の時期をむかえていました。

そして、母も酸素のチューブを卒業しました。

まだまだ無理はできませんが、これで峠は越えました。
あと2回の治療はありますが、もうきっと大丈夫でしょう。

帰還まであと1年。
希望を持っていきたいと思います。

 

 

三、四回目の治療開始

いよいよ、治療も中盤になりました。

明日の午前2時に家を出発です。向かう先は、いつも通り慶応大学病院です。

母はいつも、一、二回目の治療でホント楽になったと言っています。

家事も少しだけできるようになりましたし、3歩程度歩くと苦しかったのが、だいぶ歩けるようになったと話しています。
まだ、外出は無理ですけどね。

今度の2度の治療が終われば、きっともっともっと元気になると思います。

きっと、好きな庭の手入れもできるようになるよ!

ただ、麻酔はかなり痛いそうです。「涙が浮かぶ」と話しています。
そうでしょうね。麻酔は痛いのです。ボクも経験していますからよくわかります。

失ってわかる健康のありがたさですね。

危険度は上がります。先回の治療でも血淡が出たそうです。今度は細かい血管にも治療を施すのでさらに血痰が出ることが予想されます。

それに肺はいつも動いている臓器ですから、バルーン治療はかなり危険だと聞いています。

欧米ではほとんどが亡くなるそうです。バルーン治療では日本が最先端を行っていますし、慶応大学病院はそのなかでも、実績が一番です。

危険はかなり伴います。でも、主治医の先生も優しい先生なので、安心して任せることができます。

心配がないとはいえませんが、今回も本人の生命力と先生の腕を信じるしかありません。

治療に立ち合うのは今回も兄です。

兄は、ずっと大学の教授の助手で苦労してきましたが、4月から准教授です。4月までは時間があるからと話しています。

ボクはただ治療がうまくいくことを祈るのみです。

明日は、朝の9時までに病院に着かないといけません。明日に備え、もう寝ることにします。

がんばれ! 生きて帰ってくるんだぞ! 生きて富岡町に帰るんだ!

 

【追記】
3月25日 三回目の治療、無事終了。

 

 

はじめに

わたしは、ごく一般のありふれた会社員です。記者でも作家でもなく、まして原発などに関する専門知識があるわけでもありません。あくまでも、学もない富岡町の一人の住民です。

それでも、多くの人に東電の暴挙を知っていただくためにペンをとります。

最近、東電は賠償金を出し渋っています。

何でもかんでも証明書が必要で、書類もかなり高度な内容で複雑です。一般人は書類を読み解くのにも苦慮すると思います。

賠償金請求を阻止しているとしか考えられません。

そして、相次ぐ賠償金の切り捨て。

また、風化しつつある原発事故の現実を多くの人に知ってほしいために。富岡町、楢葉町、双葉町、大熊町に実際に住んでいた誰かが知らせないと現実を知ってもらえないと考えました。

この記事がどれだけの人に読んでもらえるのかはわかりません。でも、これだけが今の自分にできることなので書き続きます。

 

富岡町の自宅に帰還するまでの 「道中」 の記録です。

依然、行方不明のしま次郎

 

しま次郎へ

キミは、いまどこにいるのだろうか?

元気にしていますか?

ずいぶん探したんだよ。

でもダメだった。

短い間だったけどたくさんの楽しい思い出ありがとうね。

どうか、この世界のどこかで幸せでいてくれますように。

今までありがとうね。

さようなら・・。

(かつての飼い主より)

 

 

解体されていく家々

最近、富岡町に片付けに行くと目立つのが解体中の家々です。

どんどん解体が進んでいます。

若い人は当然戻るつもりもなく、いわき市などにすでに家を構えていることだと思います。
富岡町の家はもう不要なのですね。

 

富岡町にももうすぐ桜の季節が巡ってきます。

私生活では大変な日々は続きますが、帰還宣言まであと1年。

希望を持ってがんばろう!

 

 

 

帰還と移住に向けた準備(宮城県の家)

来年はいよいよ帰還宣言が出される予定です。

ボクは震災後、紆余曲折ありましたが、きちんとした会社に就職することができました。

それで、宮城県内に安い中古の住宅を購入することにしました。

家々が点在する田園地帯ですが、家も庭も大きくのんびり過ごせそうです。

これから改築にとりかかります。

母は、先回の治療に成功し、あと数週間で3、4回目の治療を迎えます。

だいぶ楽になったと本人は話しています。

今度の治療は細かい血管にも行う予定なので、危険度はさらに上がります。

最近は、元気になったら富岡町に帰りたいとよく話しています。

それで、富岡町の自宅も改築をすることになりました。

しかし、大工が忙しいようで、工事は帰還後になってしまう予定です。

とりあえずは、住めるように電気の点検と水回りの修理を先行してどこかの業者に依頼します。

今月で、震災から5年が経ちます。

あと、1年か・・・。長かったな。

 

 

一、二回目の治療開始

母の病気も、つい数日前の2月2日からいよいよ治療が始まりました。
前日の午後から仕事を休んで当日、病院へ母を送っていきました。

病院には朝の10時までに行かなければなりませんでした。

名取市の自宅を出発したのは、午前2時でした。
あたりは真っ暗で、ほとんどの家は消灯していました。

夜逃げするときはこんな感じなのかなとひそかに考えながら出かけました。

朝のラッシュもあり、首都高もかなり混雑していました。慶応大学病院に着いたのは、9時ころになっていました。

母はどんどん弱ってきています。

もう短距離でも歩くのは苦しいと話していました。
「治療しなければ今年いっぱいというのも納得できる」と本人は話していました。

月日の経つのは早いです。あれからすでに1年が経過しました。
確かに治療をしなければ、医者の言葉を借りれば今年いっぱいの命です。

そう考えるとなんとも言えない感情が沸き起こってきました。

何度も打ち合わせのために足を運びお願いしました。
でも、ここで治療をしてもらえるでけでとても幸運なことだったのです。

実際のところ慢性肺高血圧症の治療の技術では日本一の病院です。
歴史も一番古いですし、実績も日本一です。成功率も日本一です。

きっと辛い治療になるとは思います。

少なくとも6回もバルーン治療をしなければなりません。

20人に1人は生きては帰れない難しい治療です。

ただ、ただ、ボクは送迎をしたりできる限りの協力をするだけです。

きっとボクだったら、あきらめて死を選ぶと思います。生きることへの執着はありません。

でも母は「生きたい」と言っていました。

その気力を信じます。

そして、主治医の先生の技術力と。

そして昨日、1回目の治療が実施されました。

仕事もそんなに何回もは休めません。長丁場です。治療の際の立ち合いは兄にお願いしました。

1時半治療開始でした。1時間半から2時間の治療と聞きました。

仕事中はホントに心配でひそかに何度も腕時計で時間を確認しました。まだ終わらないのか?

そして、2時半くらいに兄から「無事終わりました。問題ありません」とのメールをもらいました。

無事、1回目の治療は終了しました。

でも、まだ5回残っています。

今度は来週の水曜日の予定です。

がんばれ!

 

 

動き出した歯車

母の病気を治してほしいと慶応大学病院の敷居をまたいで3ヶ月が過ぎました。

夏も過ぎ紅葉の季節も終わりを迎えました。
東北地方はもうすっかり冬支度です。いつ雪が降ってもおかしくはありません。
数日前、慶応大学病院のイチョウは丁度見頃のようでした。

あれからも打ち合わせのために何度も日帰りで東京、名取間を往復しました。
すっかり首都高の道も覚えてしまいました。

そして、カテーテルによるバルーン治療を施してもらえることが決定しました。

ただ、難しい治療方法で20人に1人の割合で生きた状態では家には戻れなくなるそうです。
肺の血管はもろいそうです。それを無理に広げるような治療方法なので合併症が怖いそうです。

それでも、治療をしなければあとどれくらい生きられるのかもわかりません。
治療をしなければ、末期の大腸がんよりも生存の確率は低いそうです。
治療をしてもらえるだけ幸いでした。

そして、先週の金曜日、カテーテルによる検査が実施されました。
カテーテルの検査も危険は伴います。
100人に1人は亡くなるそうです。

首の血管から肺に向けてカテーテルを入れて肺の圧力など検査します。
局所麻酔です。

木曜日の朝早く病院に向かいました。4時には家を出ました。
それでも渋滞に巻きこまれ、着いたのは11時でした。

その日はCTや血液検査があったようです。

治療は長丁場。そんなにも仕事も休めないからボクは次の日は仕事をこなすために名取へ帰りました。

次の日になりました。
ボクは普通に仕事に行きましたがとても心配でした。

きっと検査は午後なのだろうと思っていました。
ところが11時位に「無事に終わりました」とのメールがきました。

痛みもそんなになかったそうです。
ボクが手術した時は麻酔はとても痛かったです。注射の最中は指の先までしびれるような激痛が走りました。
医療は発達していて、今はあまり痛みはないのかな?

とりあえずホッとしました。

次の日には退院できました。

今度は検査ではなく、バルーン治療です。
来年の2月です。

危険の伴う治療になります。

でも、結果がどのようなものになるとしてもボクは決して後悔はしません。
治療をしてもらうことは、親と決めたことですから。

そして、わかってきたのはやはり避難生活の過酷さです。

足に大きな血栓があるそうです。それが肺に飛んだ可能性が高いと・・・。

結局、こんな原発事故がもたらした避難生活がなければ母も病気なんかにはならなかったハズ。

ずっと狭い部屋に閉じ込められて畑仕事もできません。当然の結果ともいえます。

今年ももう少しで終わります。
大変な一年でした。

ボクも体調があまり良くない時があります。
今日は風邪をひいてしまい、午後は仕事を休みました。

 

 

これからも

ボクは父親がまともな人間ではなかったから、人生についてアドバイスをしてくれる人もいなく、ほとんどが試行錯誤の人生でした。

だから、うまくいかなかったことも多いです。
多分、これからも物事は順調にいかないことばかりだと思います。

でも、全て自分で判断して自分の思うままに生きてきました。

だから決して後悔はしません。いや、後悔はしてはいけないのだと思います。

一生を閉じるときに悔いのないように強く生きていきたいものです。

 

 

バルーン治療

数週間前、母が退院してきました。
ただ、良くなっての退院ではありません。

このままでは2年も生きられません。

常に酸素ボンベから酸素を吸入しての生活となりました。

酸素を吸入するために、外出する際はカートのようなもの、自宅にいる時は酸素を作る機械からチューブを鼻までのばしています。

見た目はとても痛々しいです。
母の姿を見た子供は必ず振り向きます。わざわざ近くまで珍しそうに見に来た子供もいました。
でも、見た目は痛々しそうでもチューブを鼻の穴に挿しているだけではあります。

何か手を打たないと。

調べてみると「慢性肺高血圧症」の有効な治療にカテーテルによるバルーン治療があることがわかりました。
ただ、できる病院はとても少ないようです。

先回の母の入院の際に、仙台厚生病院では「自信がなくできない」断られました。
そこで慶応義塾大学病院に治療の可否を聞きに出かけることにしました。
先週の土曜日のことになります。

慶応義塾大学病院はバルーン治療ではかなり有名です。

宮城県から東京まで母を乗せて日帰りで行ってきました。

さすがに遠い・・・。
片道5時間以上。かなり車の運転には慣れたボクでもキツイ。

首都高も久しぶりに運転しました。でも自然に体が動き、全く不安はありませんでした。

でも、行ったかいはありました。

今回は、循環器内科に行きましたが、対応してくれたのはとても優しそうな先生でした。

その先生の話では、慶応大学病院でもバルーン治療をできる先生は1人だけだそうです。
そこで、そのバルーン治療を行っている先生に治療をできるか打診してくれるということでした。

また、バルーン治療自体も日本で始まってからさほど経っていないそうです。

局所麻酔をしての治療になります。
5~6回に分けての治療で少しずつ血管を広げます。

痛みもそれほどないという話ではありましたが、多少の苦しみはあるはず・・・。
ボクも高校生の時に局所麻酔での治療をしたことがあります。
注射がとても痛かったです。

命が助かるならいいのかもしれませんが、老体にはきっと辛い治療になることでしょう。

朝の5時くらいに出て、帰りは10時近くになっていたと思います。

それから数日後。
正式に治療をしてくれることが決まりました。

今度は来月初めに打ち合わせに行く予定です。

少しだけ希望が出てきました。