「かなり重症」

木曜日の夜のことでした。

母はもう動けないということでした。
トイレや風呂以外は苦しくて行けないということでした。

来週は、東北大学病院のセカンドオピニオン外来に行く予定でした。
でも、おそらく1週間も もちそうもありません。

それで夜も遅いですが、急患でいつもの厚生病院に行って診てもらうことにしました。
電話で、当直の医師が、おそらく入院になると言っていたので事前に用意しておいた入院セットを持って病院に向いました。

病院に着くと母は、しばらく処置室で治療を受けました。

後からボクも呼ばれて現状の説明を聞くために処置室に呼ばれました。

「かなり重症です」というのが医師の口から出た最初の言葉でした。

肺も心臓もかなり症状が悪化しているとのことでした。

慢性肺高血圧症は通常の肺高血圧症と違って、効く薬はないと説明を受けました。
それはどこの病院でも同じでしょうということでした。

肺の血管の末端に血栓があるから手術もできないと告げられました。

この病気はもって2、3年とのことでした。

しだいに悪化していって、苦しみながら亡くなる難病とのことでした。

とりあえず予想通り入院になりました。

入院の手続きをしているときに涙がこぼれました。

あと2、3年・・・。

たぶん母は富岡町の自宅には帰れないでしょう。

避難指示が解除されても病気で弱った母はとても一人では生活できません。
ボクは仕事の関係で宮城県に残るから、母も死ぬまで宮城県で一緒に生活していかなければならないでしょう。

これからどのような生活が始まるのか・・・。

ボクにもわかりません。

ただ、母が生きている間の時間を大事にしていくだけです。

東京の会社がリーマンショックでなくなってからボクは職場に恵まれず、いろいろな職場を転々としてきました。
丸森町にある小さな製作会社では「利益がでない」という訳のわからない理由で、3週間で解雇されました。
他の会社でも結局、人間関係がダメでした。

今の会社は地元では大手のきちんとした会社です。それに設計課の同僚はみんな穏やかできちんと仕事をしています。

ようやく長く働ける職場に巡り合えたのに。
仕事のこともとても心配していたから、少しだけ最期の方で母に安心してもらうことができたでしょうか?
親孝行できたでしょうか?

原発事故で故郷を追われ、放射能で故郷を破壊され、ネコも死にました。

今度は母も・・・。

あの日からたったの4年半。たったの4年半の避難生活で、健康だったボクも母もすっかり弱ってしまいました・・・。

 

 

慢性肺高血圧症

母の体調が崩れて半年が経過しました。

しばらく前、3ヶ月ほど前には「肺高血圧症」との診断がおりました。

難病だそうです。

血栓が心臓に向かう毛細血管に詰まってしまっているとのことです。

今はもうほとんど寝たきりです。

心不全も発症し、足はパンパンに腫れ上がり、利尿剤を飲まないと尿も出ません。

打つ手はほとんどありません・・・。

本人は「苦しい」と言っています。

来週、東北大学病院に相談にでかけます。

思えば富岡町にいた時は庭仕事をしたり体を動かしていました。

ところがここでは、ほんどの時間 借り上げ住宅に閉じこもったきりです。
運動不足もあったのでしょう。

となりの住人は変人です。

週末は毎週、毎週人を監視しているかのごとく庭で植木の手入れをしています。
ホント毎週、毎週・・・。

出かけようとすると、チラッチラッとこっちの様子を見ているような気がします。

それだけではありません。

勝手に人の敷地に入ってきて、自分の敷地から伸びた木の枝を切っています。
しかも堂々と脚立を持ち込んで、何のためらいも感じていないようです。

普通、人の家の敷地に入るのは一声かけるのが常識です。
立派な住居侵入罪です。

それに、ボクの車の方に向けてフェンスの一部のようなものを平気でスプレーしています。
車に色が付くのがわからないのでしょうか?

スプレーするなら自分の車の方を向けてやってくれ!
車はボクの唯一の楽しみだから、とても大事にしているのに・・・。

こんな変人が隣に住んでいるのでホント気を使います。

あともう少し、あともう少しと我慢してきましたが色々な意味で限界が近いです。

東電のせいで、なぜこんなにも苦しまないといけないのでしょうか?

もはや、母は富岡町に帰れる見込みはとても薄いように感じます。

 

 

富岡町の今_20150711

しばらくぶりに富岡の自宅に帰りました。

除染が済んで、庭はとてもきれいになっていました。

ただ、また今年も竹がたくさん出てきました。

また、切った竹の山ができることでしょう。

 

2年ほど前だったと思います。

うちの毛萱にある田んぼを除染で出たガレキの仮置き場に貸してほしいと、環境省の人が数人でやってきました。

その際に、ボクは

「ボクは国も行政も信用していません。仮置き場を作るのは別にいいけど、富岡町のことを考えると、最終処分場は作らないのですよね?」と尋ねました。

環境省の人は

「中間貯蔵施設は作られる予定ですが、最終処分場は作ることはない」と話していました。

それがどうでしょうか?

思った通りです。

富岡町の既存の民間管理型処分場「フクシマエコテッククリーンセンター」を国有化し最終処分場とする方針を固めたそうです。

やはりね・・・。

国も行政も信用なりません。

いつも犠牲になるのは立場の弱い地方なのですよね。沖縄のことだって同じです。

どこかが犠牲にならなければいけない。それはわかります。

でも、双葉郡はすでに大きな犠牲を払ってきたのではないですか?

もはや若い人は帰還することはないでしょう。

うちは、親は やはり故郷がいい、帰れるようになったら帰ると言っていますが、ボクは無理です。

例え親が富岡の自宅に戻ったとしても、とても心配です。

買い物はどうしたらいいでしょうか?急に体調が悪化したらどうしたらいいでしょうか?

コミュニティも破壊されました。犯罪に巻き込まれたりしないでしょうか?

多くの不安が頭をよぎります。

しばらく前のNHKの番組でも報道されていました。

長期間、低線量でも放射能を浴び続けると免疫が弱るそうです。

とても人が住める場所ではありません。今も線量の高いところは通常の500倍もあります。低くても通常の10倍ほどの線量はあります。

うちも、1μシーベルトで、通常の10倍ほどの線量です。

年寄りだって影響を受けない訳はありません。

原発とは一旦ことが起きれば、これだけ広範囲に放射能のゴミをまき散らす危険なものであることが実証されました。

それが別な原発では、再稼働に向けて動いています。

一体再稼働させることに何の益があるというのでしょうか?

狂気の沙汰です。

本当に安全だったら霞ヶ関に作ってください。

安倍政権になり、その暴走ぶりは明らかです。

政治には今まで無関心でしたが、こんなにも政権を担っている政治家に嫌気が差したのは初めてです。

 

 

 

不完全右脚ブロック

原発事故から4年。

自宅から追われ、3ヶ月ほどの過酷な避難生活。

避難先のホテルの食事は最悪でした。

職場も変わり、何度かの失業。

ネコもほとんどが、死んだか行方不明。

趣味の車の手入れも近所の目がありできません。

好きな音楽も自宅ではオーディオセットで楽しんでいました。でも、ここではイヤフォンでしか聞けません。

趣味も奪われました。

自宅では多少、定期的な運動もしていました。でも、ここは狭いから運動もできません。

今は常磐道が開通したから、大分ましになりました。自宅まで以前は片道3時間以上かけて片づけに帰っていました。
ガソリン代もバカになりません。

そして、先の見えない生活で将来設計もたてることができません。

母は血栓ができ当時からだいぶ弱ってしまいました。

事故前はホント元気だったんです。でも、今はフーフー言いながら歩いています。

原発事故以前は病院とはほぼ無縁で、健康だったボク自身は・・・?

原発事故の後に「甲状腺機能亢進症」が見つかりました。

そして、今日・・・。

「不完全右脚ブロック」

心電図に異常がみつかり、心臓が弱っていることがわかりました。

原発被災者はストレスで多くの人が心疾患で亡くなっています。

子供たちも大勢甲状腺に異常が見つかっています。

でも、東電も国も責任を認めません。

原発事故後に見つかった、甲状腺の病気と心臓の異常。

典型的な原発被災者特有の症状に思えてなりません。

これでも東電は関係ないと言えるのだろうか?

 

 

ガレキの片づけ

震災で発生した家の中のガラクタや庭のガレキの処分がなかなかできませんでした。

放射能の関係もあります。

とにかく、ねずみにやられた家具や服、切った竹など、大量にありました。

今回、行政の方で震災ガレキの撤去を無料でおこなってもらえることになりました。

庭に放置された4年分の震災ガレキ。すごい量です。

地元の会社の方が請負って13人でやってきました。

小物はフレコンバックに入れていました。

約1時間であの大量のゴミが片付きました。

近々、庭の除染が始まります。

 

 

富岡町仮設焼却炉

しばらく前から浜の方で何かを建てているなと思っていました。

とても大きな建物なのです。

国や県のやることです。いい目的のものではない気がしていました。

数日前に自宅に行ったとき、時間があったのでその建物の近くに行ってみました。

ここは震災前はとても静かな浜でした。しかし今は、付近をたくさんのダンプが、せわしく通っていました。

フェンスの向こうの方には、被災した車両が積み上げられ、また、黒いフレコンバックに詰まったたくさんのゴミがブルーシートに覆われて置かれているのが確認できました。

帰ってきて調べてみると、これは「仮設焼却炉」というものみたいです。

富岡町の出した震災によるゴミを燃やしているようです。

しかし、きっと放射能の付いたゴミもあることでしょう。

ゴミを処分しないと、復興の妨げになる。それはわかります。

でも、周辺の環境はきっと悪化すると思います。

富岡町の出したゴミだから富岡町で焼却するのは当然なのかもしれませんが、町民の目線から言わせてもらうと、町民がいないことをいい事に、勝手に国が事を進めているように思えてなりません。

数日前には、東電が意図的、かつ、勝手に汚染水を流し続けていたことが明るみになりました。

事あるごとに汚染水が海に漏れたと報道されていましたが、あれは事故などではなく、見て見ぬふりをしていたのか、あるいは、意図的にやっていたとしか思えません。

環境は破壊され続けています。ホントに帰ることができるのだろうか?

商店街の様子もざっと見てきました。

相変わらず、商店街は何も変化もなく、昼間でもゴーストタウンのように人、一人歩いていません。

 

 

母の体調不良 その後の経過

仙台市立病院では、次の金曜日にCTを撮りに来てくださいと言われていました。1週間後になります。

早めに見てほしいと頼みましたが、空きがないという答えしか戻ってきませんでした。

市立病院に行った次の日は土曜日でした。その日は母はこたつでずっと安静にしていました。

しかし、日に日に症状は悪化していました。

呼吸が苦しいと言って、その日の夜にはまともに歩くこともできなくなってしまいました。

これは次の金曜日まで放っておいたら取り返しがつかなくなると直感しました。

それで、その晩、救患扱いで厚生病院になんとか明日診てくれるようにお願いしました。

次の日の朝早く厚生病院に向かいました。

結果がわかりました。

肺近くの血管に血栓があり、それが酸素のめぐりを悪くしているとのことでした。

それで入院し、点滴による治療が始まりました。

なんでも血液をサラサラにするのだとか。

年寄りなので回復は遅かったのでしょうか?それでも症状は回復していきました。

2週間後にはなんとか退院までこぎつけることができました。

今では多少苦しい時もあるようですが、普通に生活できるようになりました。

もし、市立病院の指示どおりに次の金曜日まで放っておいたら死んでいたかもしれません。

それに、血栓の場所がもし脳だったら、障害も残ったかもしれません。

ガンでもなかったし、良かった良かった。

しかし、自分がガンかもしれないと言われた時は何も感じなかったのに、親がガンかもしれないと言われた時はすごくショックでした。

ボクはそんなに長く生きたいという気持ちはあまりありません。自分的に、もう十分長生きしました。何も思い残すこともありません。

 

 

母の体調不良 再び

母が正月前から体調を崩していました。

もう3週間になりますが、その間ずっと本人は風邪と言っていました。

でも、なかなか良くならず、むしろ悪化していたようです。階段の上り下りすら息切れして辛いとのことでした。

昨日ようやく病院嫌いの母も病院に行く気になったようです。

だから、今日は訓練校を休んで仙台市立病院に一緒に行きました。

レントゲンや肺の機能の検査をしたようです。

そして、結果は「がんの恐れがある」ということでした。

2年前の出来事が鮮明に蘇りました。早朝にわずかに血の混ざった痰が出て救急車で運ばれた、あの時のことが。

また、別の日にCTを撮ります。

帰りに、親子して かっぱ寿司で遅い昼飯を食べました。

しかし、食べている最中にとめどなく涙がこぼれてしまいました。

母はオヤジがアル中だからとても苦労してきました。それにボクは随分かわいがってもらったので。

穏やかな老後の生活さえも東電に奪われてしまいました。

それを考えたらすごく無念でたまらなくなってしまいました。

今日は、もう何も何も手につきませんでした。

もはや、母は再び富岡町に帰ることはできないのだろうか?

次の仕事の内定はもらっていますけど、断るしかないのでしょうか?

仕事よりも母のことが心配です。

でも、仕事をしないと生活は成り立ちません。長期戦になればなるほど費用もかかります。

一体、これから、どうしたらいいのだろうか?

 

 

わたり温泉 鳥の海

ボクは今日まで正月休みです。

正月連休最後の日なので明日に備えて気分転換に温泉にでも出かけることにしました。

「わたり温泉 鳥の海」に出かけることにしました。

ここは亘理の荒浜にあり、震災で被害を受けてしまい、3ヶ月ほど前にリニューアルオープンしました。

11時過ぎに家を出て、用足しをしながら向かいました。着いたのは1時ころになっていました。

5階建てで、温泉は最上階にあります。2~3階はどんな施設が計画されているのかわかりませんが、どうも現在は使用できないようです。

温泉からはガラス越しではありますが海を眺望でき、とても眺めがいいです。

泉質はなめらかなで、とろっとしていました。

とても温まりました。

温泉でのんびりした後は近くを散策しました。荒浜も大きな被害のあった場所です。

被災した海岸線に共通の風景ではありますが、温泉の周囲は、ただ、広い空間が広がるのみです。

海岸へ向かいました。

いったん足元などに目を向けると、まだまだ津波の爪痕は残されているのです。椅子でしょうか?

 

自然は美しくもあり、残酷ですね。その前には人は無力です。