法律相談へ

今日は南相馬市で巡回法律相談があり、原発事故の賠償について相談に行きました。

内容的には、事故後に発症した甲状腺の病気について何らかの救済の措置があるのか、また、長く放置したために発生した車の修理代の賠償請求ができるのかという相談の予定です。実際に車の修理には何十万もかかりました。

すでに東電には確認しましたが、いずれも賠償できないの一点張りです。

1時半からの予定でしたので、朝は8時には借上げ住宅を出て、まずは自宅の様子を確認してから向かうことにしました。

自宅は相変わらずで、特段何も変化はありませんでした。

2時間ほど庭や部屋の片づけをしました。

そして、南相馬市の、ある公共の施設へ。

1時には着いたので弁護士が来るまで部屋で待っていました。

多少寒い部屋でした。

弁護士が来たのはきっかり1時半でした。

いくら多忙でも、時間きっかりってどうなのでしょう?5分でも、10分でも、少しは余裕を持って早めに来るのが礼儀ではないでしょうか?

とても若い弁護士でした。といっても30歳位ってところでしょうか?

第一印象は、外見はきちんとしています、しかし、クールで冷たい印象を受けました。

こんな若い人に人の心の痛みがわかるのだろうか?とふと疑問に思いました。

弁護士は、簡単に自己紹介をされました。

それから、いろいろと相談しましたが、やはり当たり障りのない無難な答えが返ってくるだけでした。

「因果関係を証明する医師の診断書が必要です」

「甲状腺の病気だからといって放射能が関係しているとは言いきれませんよね」

そんなこと、ボクでも知っている事ですよ。

医者もそう簡単には診断書なんて出せないことを知っているから、相談に来たのですよ。

「東電も国も責任を認めていませんが、福島県内では100人以上の子供たちが甲状腺ガンになっています。それは大人でも同じなんです!」

立場上仕方ないのか、それとも、エリート気取りしているのか、あくまでも、無難な事を淡々と話されていました。

「難しい問題ですね」

少しムッときました。

「難しい問題だから、こうやって相談に来たのです! 」

はっきりいって、時間の無駄な気がしました。

何の解決策も、何らかのいい提案も得られませんでした。

なんだかバカバカしくなって、10分で打ち切りました。

「結局、今日の成果はなしということですね」と捨て台詞のようなものを吐いて早々と退出しました。

弁護士だから法律の知識はあります。

ただ、やはり人の身になって法律的な面での的確なアドバイスをするのは人生経験が必要なのかもしれません。

特に福島県民ではない方だった場合、本当に避難している者の気持ちを理解できるのか正直疑問です。

避難している人は、他の人には想像もつかない苦労があるのです。

長引く避難生活で人生設計もできず、じわりじわりと生きる意欲や精神力が蝕まれます。

相手はパリッとしたスーツを着込んだ弁護士で、ボクは上下ともジャージに身を包み、底辺を這いつくばって生きている人間です。

それでも、多少の思いやりのある言葉やねぎらいの言葉を期待しては酷ですか?

人間なら誰しもが、まずはそういう言葉をかけてほしいものではないでしょうか?

ロボットと話しに来たわけではないのです。

自分の考えは何か間違っているのだろうか?

なぜ、こんなにも言いようのない怒りが込み上げてくるのだろうか?

 

 

富岡町の今_20141101

もう1年ほど前のこと。

今は辞めましたが、ある派遣会社に就職が決まり、研修で名古屋に行きました。

あまり自分は被災者であることは話しません。

でもその時、ふとした事で同じく研修に来ていた人に自分が原発災害で避難していることを話しました。

「福島県の原発事故は全然進展なんかしていないんです。多くの人は避難したままなんです。決して風化させてはいけないと思います」と話しました。

そしたら、「実際は風化していて、ほとんどの人は全然感心なんて持ってないのが現実じゃない」と返ってきました。

確かにそうかもしれません。当事者でないと原発事故になんて、もう感心なんてないのかもしれません。

それが現実なのかもしれません。

ただ、その心無い言葉に内心怒りを感じました。

双葉郡の多くの人が狭い仮設住宅で、しかも家族単位で生活しています。

機会があったら仮設住宅の中をのぞいてみてください。

狭く、プライバシーなんてあったものではありません。

最近は雨漏りが生じて畳にカビが生えてしまい、肺を菌に侵されている人も増えていると聞きます。

一度菌に侵されると一生治らないそうです。

原発事故がなかったらそんなこともなかったのです。

そして、自分の親類もストレスで心臓をやられたり、うつになっています。

でも、それが双葉郡の大勢の人が置かれている状態なのです。決して珍しいことではありません。

ボクや母は、わりと元気にうまくやっている方です。

ただ、運よく割と広い1軒屋に入居できたせいもあると思います。

また、ねこが結構かわいくて、気を紛らわせてくれているせいもあるのかもしれません。

私生活ではボクは職業訓練校に入って機械の勉強をしています。

仕事をしていたり、勉強していたりするとやはり生活に張り合いはでてきます。

避難生活がどんなに長引こうと、周りの人が無関心であろうと、決して負けてはいけない。

今 置かれているこのような状況でも、将来の自分のためにできることはきっと何かあるハズだ。

そう感じるこの頃です。

庭の除染も片づけも全く進展がなく、ガレキは積み上げられたままです。

水道もガスも出ません。

ネズミに配線をやられている可能性があるため、電気を点けることもできません。

床を拭いても拭いてもネズミに荒らさせます。

ネズミ捕りにかかったネズミは腐乱し、悪臭を放ちます。

ゴキブリの死骸も転がっています。

そして、家に帰って感じることはいつも同じ。

3年以上経ちますが、自分を取り巻く状況は相変わらず何も変わっていないように感じるだけです。

こんな現実を双葉郡以外の人はどれだけ知っていることか。

ごくまれに用事で東京にでかけることがあったとしても、見かけるのは、ただ何もないように忙しそうに足早に歩き去る人々の姿だけです。

当初は、果たしてこれは同じ日本なのかと、その現実にとても大きな違和感を感じていました。

そして、東電本社の経営陣のどれほどの人がこの現実を実際に見たことがあるのだろうか?

何も責任も罪悪感も感じないのだろうか?

疑問を持たざるを得ません。

辺りには人気がなく、閑散とした土地が広がっています。

今日は朝から小雨が降っていました。

なんとなく寂しげな秋の小雨は、気持ち的には、一層わびしさを助長させるだけでした。

数日前に、福島県知事選挙がありました。

私欲にまみれるだけの腐敗した政治家などには自分は何も期待していません。

 

 

富岡町の今_20140929 田んぼの除染

富岡町の自宅に用事があり2週間ぶりに自宅に戻りました。

東北地方は秋まっさかり。

空気はカラッとしていて、すがすがしい日々が続いています。

少し山に目を向ければ、紅葉が始まっています。

去る、15日に6号線が全面的に開通になりました。通行証がなくても誰もが通過できます。

これで、毎回毎回、検問所で嫌な思いをすることもありません。

ただ、福島第一原発付近の空間放射線量はかなりのものです。3年以上が経ったとしても、道路の除染をしても、全く状況は改善されていないと感じるのはボクだけでしょうか?

安易に何度も通行するのは危険です。

ただ、やはりそれでも、そういう場所で仕事をしている方も大勢いらっしゃいます。

他人のことですが、心配です。

富岡町で、ふと、ある田んぼに目を向けると重機でなにやら作業しているようでした。

田んぼの表土をはぎ取っているようでした。

農家の方にとっては、農作業が命です。

果たして、富岡町で農業が再開できる日はいつになるのでしょうか?

最近いっそう、仮設住宅で「ひきこもり」や「うつ病」や、最悪の場合は「自殺」が増えているようです。

前双葉町長から、パチンコなどをやって、好きなことをやっている人はいい方だという話を聞きました。

「好きなことをして生きのびましょう」と。

その言葉はとても暖かく、それでいて痛いほど実感できる言葉でした。

 

 

富岡町のいま_20140806 田んぼの除染

今日も富岡町の自宅に片付けに行きました。

先日、通りがかりに除染のために、田んぼの周りの草だけが刈られた光景を見ました。

今日、同じ場所を見たら田んぼの草が刈られてきれいになっていました。

今日の自宅での作業は竹藪の手入れです。

うっそうと茂った竹を切ってきました。

暑かったので、汗びっしょりになりました。

1時間半ほど作業をしてダウンしました。

疲れたので部屋の窓を開け放って涼しい風を入れながら、自分の部屋の椅子にのんびり座って、外の景色を見ていたら、やはり昔の事が思い出されました。

ここ10年、ずいぶん変わりました。

10年くらい前の改築前の富岡町の自宅のドアのカギは外からはかけられませんでした。

内側からしかカギをかけられなかったので、カギをかけるのは寝る時だけでした。

夏の日中は家じゅうのドアや窓を開け放って風を入れていました。

そうすると風が抜けてとても涼しいのです。

出かける時もカギはかけませんでした。

それでも平気だったのです。

確かにボロ家だとはいえ、泥棒が入ったことは一度もありませんでした。

うちも先祖は寺子屋をやっていて、地元に長く居座る家系です。今考えると、周りは親類ばかりですので、コミニュティがしっかりしていたこともあったのだと思います。

ボクは親類づきあいはほとんどありませんでしたが、祖母も母も何かと親類のところに出かけていました。

双葉郡なんてそんな感じで農村部はとてものどかな所でした。

もう、そうはいかないですね。

それを考えるとやはり失ったものは大きいのだと感じました。

双葉郡に限っては原発事故でコミニュティが失われたこともありますが、でも、昔と変わってしまったというのは日本全体に言えることかもしれません。

まだ若輩のボクが言うのもへんですが、日本人は昔とは変わってしまいました。

人情も薄れました。自分の利得のために人を平気で騙すような詐欺も横行しています。10年ほど前には振込詐欺なんて信じられませんでした。昔から悪い人はいたのでしょうが、悪質な事件がとても多いように感じます。

つい先日、病院での出来事です。

痛い採血も終わって、缶コーヒーでも飲んで検査の結果が出るのを待っていようと自動販売機前で何にしようか迷っていました。

これにしよう。

そしたら、おばあさんが、「水どれだろ? 水が飲みたい、水が飲みたい」とつぶやいていました。

「この110円のですよ」。

「目も悪いし、あまり買わないからよくわからないんです」。

そこでボクはおばあさんの手から110円をとって、自動販売機に入れました。

「コレでいいですよね?」。そして、ペットボトルの水のボタンを押しました。

そしたら、とても喜んで「ありがとう、ありがとう」と何度も言っていました。

どんなに小さいことでも、やはり人の喜ぶことをするのはとても後味のいいものです。

しばらく自分も幸せな気持ちになりました。

被災し避難して多くの人に助けられた時も感じました。

何か自分にできることがあったら、人の役に立ちたい。

そして、被災した多くの方や子供たちもそう口をそろえて言います。

ある人は被災者って、きれいごと言って、何いい人ぶってるのだろうって言っていました。

でも、この気持ちはやはり偽りはありません。

どん底の状態で助けられたからこそ、やはり人の役に立ちたいという気持ちが生じたのだと思います。

そして、人の役にたつ事はやはり、自分の幸福感にもつながるのです。

そして、昔の日本には、そういう小さな優しさが溢れていました。

決して珍しいことではありませんでした。困っている人を見かけたら助けてあげて、お年寄りの荷物を持ってあげたり。

ある昔の教師は、貧しくて弁当をもってこれない家庭の子がいるとそっと、食べ物や鉛筆を机の中に入れたそうです。

「困った人を見たら助けてあげなさい。弱い者をいじめてはいけません。人に迷惑をかけてはいけません」。

それが、多くの家庭でずっと教えられていたことでした。

それが日本人のアイデンティティーだったはずです。こんなにもすばらしい伝統があったのです。

まだまだ、他の国に比べればずっとましです。

でも、なぜ、こんな風になってしまったのだろうか・・・。

悲しい現実です。

 

 

富岡町のいま_20140721 田んぼの除染

本日の富岡町における除染風景

田んぼや側溝の除染をしていました。

しかし、なぜか田んぼに関しては周辺の草を刈っただけ。

何の意味があるのだろうか?

先の見えない避難生活とそれに伴ういろいろな苦痛。

東電に対する怒りも限界です。

でも、自分には何の力も権力もなく何もできない。

それがもどかしい。

でも、これが現実なのです。なんて理不尽な世の中なのだろう。

 

 

記憶をさかのぼって

あれから3年の月日が過ぎました。
いろいろな事がありました。でも、昨日の事のようにも感じます。

震災当日、会社から40kmほど離れた自宅に必死に帰りました。

ただ、いったいどこを通ったのか全く思い出せませんでした。
いままで、何回か足取りを追ってみたのですが、やはりわかりませんでした。

本日、少しだけ帰路がわかりましたので記録しておきます。

やはり、あの時にかなりの衝撃をうけたのは小高町の商店街でした。

3年という月日を感じました。すっかりきれいに片づけられていました。
ここの空き地がきっとそうです。
あの日、大きな木造の民家がぺちゃんこになっていて、原型をとどめるのは屋根だけでした。

住民の方は、片割れの自宅に今も住んでおられる様子でした。

商店街も道路自体はきれいに片づけられていました。

かつて見た光景はウソのようです。
塀は道路にこなごなに砕け散っていて、ガレキはひどく散乱していました。

ひと気はなく閑散としていました。通る車もあまりありませんでした。
住民の多くの方は、まだ戻られていないのかな?

ただ、やはり被害は小さくはなかったのだと感じました。

この後、沿岸部の様子を見に行きました。

やはり沿岸部はどこも同じで悲惨です。

まだまだ復旧はなされていないのだと、感じずにはいられませんでした。

ただ、広い空間が広がるのみ。

記憶の破片

残っている民家も・・・。

 

 

 

自宅のガラス割られる

本日も2週間ぶりくらいに富岡町の自宅に帰宅しました。

6号線では先月あたりから除染が行われています。
結構な距離を片側通行にして作業しています。

大熊町付近にて、帰りに撮ったもの

道路をほうきできれいに掃いたり、ホコリを緑色の機械で吸い取ったりしていました。
大きいゴミは大きな黒い袋に入れていました。

そして、自宅に着くとすぐ異変に気づきました。

倉庫のドアが開いている・・・。

そして自宅の東側の窓が・・・。

割られた形跡がありました。
でもなぜか誰かがブルーシートで養生していました。

まったくもって謎です。

 

 

富岡町のいま_20140405(2) 思い出の場所

海側をまわっても、まだ時間はありましたので、昔の思い出が残る場所に向かいました。

楢葉町の天神岬公園へ。

天神岬公園へ通じる道

夜になると灯篭に火がともり、とても幻想的でした。

ここはボクが小さいころはアスレチックの遊具しかありませんでした。
だから、いつ来ても人はいなくて、寂しい場所でした。

でも、ラジコンを走らせるのにはうってつけの場所でした。

祖母と兄とで何回も来ました。

そのうち、温泉ができ、アイス屋などのお店もでき、週末は大勢の人でにぎわうようになりました。

海が見える温泉だったので、都会の人はわざわざ遠くから来ていました。

福島県の浜通りはとても暖かいため、すでに桜は咲き始めていました。

奥の方に、昔からあるアスレチックの遊具が見えます

展望台

これも昔からあります。何度も登りました。

ボクは、ここから見える風景が好きでした。

辛いことがあると、ここに来てずっと景色を眺めていました。

青春時代を過ごした福島県浜通り。

人間関係では辛いこともたくさんありました。

でも、楽しいこともあったのです。

自分も小さなとき、こんな辛い人生になるとは考えてもみませんでした。

小さい時から今の今まで辛いことばかり。

いったい自分は、何のために生きているのだろう。

ふと、少し涙がこぼれました。

そして、思い出の残る昔の景色も失われてしまいました。

今の自分には、この場所のように、辛いことがあると行けるような場所もありません。

山側

 

 

 

富岡町のいま_20140405(1) 除染

先週の土曜日は用事があったので、楢葉町に行きました。

ところが、キャンセルになったため時間ができましたので、富岡町の記録を撮りに行きました。

ボクはギャンブルは嫌いですが、パチンコ屋

裏側

今日は、まず海の方に向かいました。

やはり海側は津波の爪痕がひどいです。

盛り上がったマンホール

倒壊した建物

内部

ガレキの山

本格的に除染やガレキの片づけが始まっていました。

ここは町営住宅がありました。
コンクリートの基礎部分しか残っていません。

ガレキの片づけが始まり、少しずつきれいになっていました。

ただ、片づけが済んでも、だだっ広い空間が広がるだけです。

それを見ていると、なんだか、むなしくなってしまいます。

 

 

 

富岡町のいま_20140325(3) 清水

次に清水地区に向かいました。

途中で梅の花や、椿が咲いているところを通りました。

荒廃した地区に咲く美しい花。

人が住まなくなっても、花は咲くのです。

例え、家々に雑草がはびころうとも。

毎年、何もなかったかのように。

なんとも言えない気持ちが沸き起こりました。

自然の強さ、そして永遠性。

人間の弱さ、もろさ。

そんなところでしょうか。

常磐道を上空から見る。

走っている車はまばらでした。

でも、今年ないし、来年には仙台まで開通するそうです。
そうしたら、ボク達の一時帰宅もだいぶ楽になります。

先日の大雪の影響だと思われます。

清水地区の家々は、割と、震災の影響は少ないように感じました。
道路の補修も進んでいるように感じました。

ただ、荒廃している点では、当然変わりません。

そして、帰宅。

双葉町を通過。このあたりの線量は非常に強いため、車内から撮りました。

浪江町での通行証の確認。